2007年01月13日

松の内。

1/11は、表千家さんの初釜に参加させて頂きました。
お家元が、お客様全員の濃茶を御自分で、すべて点てていただけることが何よりの御馳走でした。
緊張!!
点心席では、お家元はじめ、皆様、気さくにしていただき、緊張と緩和の中に、明日からの活力、意欲を頂きました。
感謝!!
 


元旦の大正月に対して、十五日を小正月と呼びます。        

 
これは満月の日をつき始めとする原初的な暦の名残と言われています。   
この日、三本松と青竹を組み立てて、中に注連縄や門松などの正月飾りを入れて燃やす行事を「どんと」と言い神社や各家々で行われています。  
 
古くは正月遊技に使用された毬杖(ぎちょう)という長柄の槌を青竹と組んで焼いたので、三毬杖とも書くらしいです。
 
「徒然草」には、「さぎちゃうは、諸月の打ちたる毬杖を、真言院より神泉苑へだして、焼きあぐるなり」と書かれています。
 
この火で書き初めを燃やすことを吉書揚げ(きっしょあげ)と言うらしいです。        
その燃えさしが高く舞い上がれば書道が上達すると言い伝えられている様です。        
 
またこの火で焼いたお餅を食べると、病気にかからないと言う言い伝えも在るそうです。   
 

京都吉兆では1/15の7:30から嵐山店に全店の注連縄を集めて 点火してみます。  
       

15年来、私の担当になっており 毎年の商売の運勢を占ってきました。 
 私本人は、全く信じていません。        
 燃えかすが残らぬように綺麗な灰になると運勢が良いらしいのですが今年はどうでしょうね!! 
 
こつは、はじめに綺麗にほぐすところにあります 。       
燃やしているときは隅々まで綺麗に酸素が行き渡っているかを気に掛る事は、もちろん火の粉が舞う原因を状況判断しながら かなり大きな炎になるのでその熱で 周りに支障ない様 水をまきながら遂行することが大事です 。
 
もしかしたら商売と似ているかも・・・ ?     
 
posted by 徳岡邦夫 at 20:13| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月03日

おせち。

お正月の行事は生命再生の性格が強い様に思います。
 
特に元日は年の初めを祝い1年の無事を歳神様にお祈りする日です。
そして祝いの膳に並ぶのが「お節料理」で、無病息災、子孫繁栄などの願いを込めた料理が重箱に詰められています。
 

「おせち」は「御節供(おせちく)」の略語で今は正月料理だけを指しますが、元々は元日をはじめ1月7日の人日(じんじつ)、3月3日の上巳(じょうみ)、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽などの節句に神前へのお供えものと祝い料理を指しているようです。
 

伝統日本料理の代表ともいえるお節料理は、案外に歴史は新しく江戸後期から始まった様です。
       

もともと新しい歳神様に料理を供えるという平安時代の宮廷で節供に供せられた料理から始まったものですが、その宮中のしきたりを江戸庶民が粋なユーモアからさまざまな願いを食べ物の形や名前の語呂合せにした料理で祝うという食文化に発展させました。 定番の料理にはそれぞれ縁起のいい意味が付けられています。  
       

黒豆は「まめに暮らせるように」、鯛は「めでたい」、数の子は「子孫繁栄」、昆布は「喜ぶ」、伊達巻は「晴れやかさと華やかさ」、田作り(ごまめ)は、田んぼの肥料に用いられていたことから「豊年豊作祈願」、紅白カマボコは「慶事の色で魔よけの紅と清浄の白」、たたきごぼうは「細く長く大地に根が張る」、慈姑(くわい)は「目がでてめでたい」、海老は「腰が曲がるまで長寿」などです。
 

おせちの素材は地方によって異なりますが、根菜類、果菜類、茎葉類、魚介類、菌類、藻類など、あらゆるグループから選ばれた30品目を越える食材の多さこそが特徴であり、さまざまな栄養をバランス良く摂ることの出来る健康メニューと考える方が適当かも知れません。
 
 おせちこそ元旦に一年の健康を願う うってつけの薬膳といえるでしょう。
 
posted by 徳岡邦夫 at 15:40| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月02日

賀正。

あけましておめでとうございます。
本年も、御指導ご鞭撻 宜しくお願い致します。
 
お屠蘇を飲む習わしが日本に入ってきたのは、嵯峨天皇の頃(9世紀初め)だそうで 今も家族の長寿を祝って飲むお宅もあると思います。
 
聞いた話ですと、飲み方は、まず一つの杯で一番年少の者から順々に年長者へまわして飲んでいくそうです。これには年少者の若い気を年長者に与える意味があるそうです。
 
その他に年長者から年少者にまわしていくと先細りになるため縁起が悪いので年少者から飲むという説もあります。


作り方にはいろいろあるようですが、白ジュツ、桔梗、山椒、肉桂、大黄、鳥頭、サルトリイバラ、防風を細かく刻み定量を紺色の袋に入れて大晦日の正午に井戸の底につかないように水中に吊るすそうです。

 
これを元日の早朝に井戸から取り出して温めた3升のお酒に浸したものをお屠蘇と言うのだそうです。正月三が日は毎朝飲み、残滓はあとで井戸に入れる。
 
一人飲めば一家が無病、一家が飲めば一つの里が恙無い。
 

一年中その井戸水を飲んでいると、代々病気をしないともいわれています。 つまり元日の朝に飲む事でその1年を大事にしているということでしょうね。 
     

posted by 徳岡邦夫 at 21:00| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月26日

本年も有り難う御座いました。

本年も有り難う御座いました。


今年も、沢山の経験に恵まれ 有意義な悩みを持つ事ができました。

私は何処に向かって走りたいのか?どういう人になりたいのか? しっかりした答えが出た訳でもなく、ただ漠然と「人気者」になりたいと思っております。
       
うわべだけの人気ではなく 皆さんから求められる人、皆さんに利用される能力を持った人と言う事です。
私としましては、今後も 現実と向き合い、本気でぶち当たる事を止めず それを要因として起こる出来事の中から いろいろな目に見えない物事を感じ取っていきたいと思っています。
      
そこには 憎しみも湧き出てくるかも知れませんが 出来るだけフラットで有り続けたいと思っております。
お礼の文章らしくないですが 私なりに最大のお礼の気持ちを込めているつもりです。
 
旧年中は、いろいろ考えさせて頂く機会を与えて頂いて有り難う御座いました。
私からも 今後、HPなどを通して いろいろな提案をしていきたいと思っております。
       
来年も お付合いのほど 宜しく御願いいたします。

 
特に、一次産業関係者、学生君達、ありがとうございました。
 
2002年に放映された「情熱大陸」の番組の中で紹介した 「蕪の丸ごと炭火焼き」の話です。
 
京北町に適した有機栽培方法を用いて作られてた取れたての蕪を生で食べ このままのポテンシャルバランスを増幅させたいと思い、蕪の周りの土ごと持ち帰り井戸水で土に湿り気を与え 芯に蕪の入った土饅頭を作りそれを 炭火に放り込んでみたのです。


それが初めの試みでした。


土の風味が強いので最終的には、蕪に塩をまぶしアルミホイルで風味や香りが損なわないようにくるみ備長炭で蕪を囲い焼きしました。 焼きすぎると柔らかくなりすぎ 旨味や風味を出し切ってしまうのでレーアーな感じで仕上げます。
       
口の中に入れ蕪を噛んだ瞬間に 、旨味や香りが口いっぱいに広がります。


こんな蕪を食べたら 料理してくれた人の事 蕪を作ってくれた人の思い、その環境の風景を、是非思い浮かべようとして頂きたいです。

つじの世代の方々にも、こういう一次産品を 味わって喜びとしてもらいたいですね!


皆様  良いお歳を!!
                                          徳岡邦夫

posted by 徳岡邦夫 at 17:57| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月16日

作麼生(そもさん)!!

作麼生(そもさん)「いかがですか?どうですか?」 
 
「兜率の三関」として禅宗の世界に恐れられる入門試験があるそうです。 兜率和尚の詰め寄る三つの問いです。 
 
 第一は、禅修行の目的は、只だ自己の本性を見定めることに尽きるのだが、お前さんの本性はこの瞬間どこにあるか見せてみろ。というもので、
 
第二問は、自己の本性さえしっかり掴まえておけば、死の準備は既に完了だが、 お前さんはいよいよ臨終という時、どのように死んでいくか。 
 
また死んでからのお前さんの行く先はどこだ、と言うのが 第三問だそうです。
 
今でも日本中の坐禅道場では、「生死事大、無常迅速、時不待人、慎勿放逸」と書いた板を叩いて朝夕の時を告げることになっています。
 
生死の解決こそは最重要課題である上に、時間がどんどん過ぎて行くばかりで一時も気を緩めては ならないぞ、と言うわけでしょう。 それゆえ禅僧は昔からこの課題に取り組んで修行に励み、悟りを得て立派に人生を生き、そして惜しみなく死んでいったとされています。 
 
では禅僧たちはどういう答えに至ったか。その例を調べてみましょう。 
 
南北朝時代を生きた妙心寺の関山慧玄は、 生涯にただ一語、「慧玄が這裡に生死無し」を残して逝ったと言われています。 
 
江戸時代初期の沢庵和尚は死に臨んで「夢」の一 字を大書し、「百年三万六千日、弥勒観音幾(ほと)んど是非、 是も亦た夢、非も亦た夢、弥勒も夢、観音も亦た夢、仏云わく、応に是の如き観を作すべしと」と添えているそうです。 
 

2つの例ではありますがそうなると、禅宗としていったいどれが正解なのかさっぱり分からないということになるでしょう。
 しかもどの人も 悟りによって生死を超えたと言われている人の死にざまに違いないのだから、どうやら禅僧の死に方には定型パターンというものがないらしい。ということになると、禅宗には定型となる信仰箇条のようなものさえないとなるのでしょう。 

 

要するに禅宗では、いかに生き、いかに死ぬかは各人まかせ、これについては誰も教えてくれないと言うことなのでしょう。
 

多分、正解を知らなくても、良いのでしょう。 正しい生き方、正しい死に方なんて無い訳です。
       

「これまでどう生きてきたのか?」「死を前にしてこれからどう生きたいのか?」と言うことが大切なように思います。
 

健康な方が死を意識して生きていないと思いますが、「どう死ぬか?」と言うことは、「それまでをどう生きるか?」と言うことだと思います。
 「死=無」なのですから。  エネルギー交換の法則と言う考えもありますし、脳死であるとか、どうとも答えが出せない問題もありますが、私自身は、「どう生きるか?」とか「私は、何をしたいのだろう?」と問い掛けながら、少しずつですが歩んでいるつもりです。

 
 実行してしまったことについては、責任を取る覚悟でです。
 
年の暮れ、来年の為に、こういう事も考えても良いかもしれませんね。
 
ただ、付け加えて伝えたいことは、そのような事を考える事や、悟りを開くことに精進するのは、御自身の為だけにですか?


 作麼生(そもさん)!!

 
posted by 徳岡邦夫 at 20:30| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月15日

近年のまとめ。

ここ十年ぐらい前から、言い続けてきた事をまとめて見ました。 
 
●食事について。
 
正しい食事とは、究極的にはお茶事のような形式的合理化された物であるかも知れません。  然し、それに慣れ親しんでない方々には ワイワイと和気あいあいとするのが楽しいし、思い出にも残る集いで、そういう会では何かが生まれます。


つまり、食事とは、人と人がよりスムーズにコミュニケーションを取り、その環境のバランスをよりよく保つ為に必要な物ではないでしょうか。  その事は、生きて行く為の「核心」でも有ると感じています。  

 

ご自分の所作、言動が、亭主(ホスト、料理を作ってくれた人)の目に触れる事により どの様に亭主に、もしくは同席している皆さんに感じ取られているか。または、自分の思いが伝わっているかを感じ取る事が大切だと思います。
そういう事を気づかっていると、美味しく料理が食べれない、楽しくないとおっしゃる方もいらっしゃいますよね。

 

でも現実、食事時でなくとも、貴方の言動、所作が、他の人に何らかの影響を与え、どういう人かと言う事を感じ取られているのは、事実です。
それは貴方が、感じていなくとも、感じ取られているのです。そのことが、将来にどんなに大きな違いになるかは、世間が、証明していることですね。
       
同じ目線でインタラクティブな情報交換の後、共通の空間・価値観を醸成する事が生きて行く為の基本だと感じています。 また、作法を超えた自己表現やそれを受け入れる柔軟性、包容力が必要なんではないでしょうか。


そのかなたに、共に力強く生きるという事があるのでしょうし、それに向い無心に努力できることが、幸せ感なんだと感じています。

 
茶事であっても、楽しく和気あいあいとした食事会であっても、思い出にも残る集いには、ただ馬鹿騒ぎしているだけではなく、ただおすましているだけでない、人と人の気持のキャッチボールがあり、私は、何か素敵な充実感を感じます。


 ●美味しさとは。

 
「美味しさ」って何かなと考えた時、それは一人一人が体を維持する為や安らぎを得る為等、様々な理由で「欲してる物」なんだと考えています。  食べると言う事は、本来 五感全てを使って、目で見て、触れて、香りを嗅いで、口に入れて味覚で得た情報と、今までの体験や噂などの情報を合わせて感じ、食べても死に至らないかを判断し覚悟する事なのではないでしょうか? 
 

つまり本来の五感とは、危機回避の為に備わっている機能ではないかと考えています。
       
そして、今提案する事は「食べる」って事はエネルギー補充、つまり体内に物を取り込むと言う事ですので、食べる物に対してもう少し熟慮すべきなのでは? というのが私の考えです。  それに加え、人間というのは食べて寝ているだけでは生き続けられない動物だと感じています。
       
それは、精神的安らぎを求めていると言うことではないでしょうか。  その事に加え「美味しさ」と言う感覚を媒体にして、自分の意志を伝えたり他の人の基準に共鳴する事によって親しくなる事があると思います。   

 
つまりその事で そのグループに属しているという安心感に繋がっているのです。それは全ての感覚に共通する特質だと思います。 「美味しさ」はコミュニケーション手段には不可欠な物で、その時代の共通価値観である部分もあるのではないか?と感じています。
 
●五感を鈍らせる情報操作。
 

五感という各センサーで感じ取った情報は各神経群で処理され、重要部分が脳の海馬横の扁桃体に信号化して送られ、「他の信号化情報」と複合され優先順位を決められる様にイメージしています。 しかし、最近その「他の情報」の影響力の方が大きくなっているように思えます。
       
例えば「誰々さんが言ったから!」「TVでやっていたから!。」美味しいんだ。体によいもの。と言う事が起こっているように思います。情報操作です。

 
私が大事と思うことは、たくさんの情報の中から自分で求め、判断し、選び、決断し、実行してその責任を自分自身で取る覚悟を決めることではないでしょうか?
 
責任というのは、自分自身だけで決して取れる物ではないとは思いますが、決意をすることが大事だと想います。
 

また、学ぶ事は大切な事ですが、もっと大切なことは自分自身で感じる事だと思います。 必要な事や欲している事は、懸命な生活の中から必然的に得られる様にも感じています。 そして諦めない事、自分自身を信じる事が全てかも知れませんね。その過程での多くの出会いが楽しいのかも知れません。
 
●料理を科学する。

 
科学すると言う事は一つのロジカルな情報を得る事と考えるのではなく、体感しながらロジカルに考え、工夫し、その事を積み重ねていく事と捉えていただきたいです。
 
沢山の情報の中から決断するために話し合ったり目の前で実験をしてみることが重要で、「美味しさ」を知ると言う事はそういう事だと思います。 そして、食べる事によって生産者の人柄、生産地の風景、料理提供者の想い等を想像し、思いやりを持ってレシーブ出来る力こそが、共に生き続ける為に必要だと感じています。 
 

量、質についてはそれまで各人の育った環境で変わると思います。つまりアメリカ人にはアメリカ人のおいしさが存在し、私達日本人には日本人の味覚に合った美味しさがあると思っています。  もちろん共通点はありますよね。 同じ人間で、生体組成は同じなんですから欲する栄養素は同じ筈です。   ただ比率が違うのではないでしょうか。
       
違う環境で収穫できる栄養比率の違う物を長年食べ、子孫に受け継いで来たのですから 内蔵の仕組みが食べ物に適応している筈ですし、それに伴って外観も変らざるを得ません。  それと環境は温度とも大変関係が深いと思います。

 

その様々な要因によって世の中が出来上がって来ている事をまず知る事が大切だと思います。  また、今は流通が発達して情報のスピード、物流のスピード、変化のスピード等が早くなり地域間の体感距離が短くなった様に思います。 今と昔では、文明が進んだ場所ほど「美味しさの基準」は、変化している筈です。 
 
なぜなら、環境が早いスピードで変ったからです。 その基準を今考え直す事に、意味があると思います。
     

考えて頂きたい。
 
経済が破綻しても、人間は何とか生きていけます。
自給自足や、物々交換をしていけばよいのです。
 
しかし、食の世界が、破綻すれば、どうやって生きていくのでしょうか?
ケミカルなサプリメントを食べて生きていくのですか???
 
そして、食の世界を支える自然環境が破綻したらどうなるのでしょうか?????
 
水が飲めなくなります。空気がすえなくなるのですよ!
即死じゃないですか!!!!!
 
それでよいのでしょうか?
 
一次産業の次の担い手がいなくなったら、自給率が、ますます下がります。
他の国に、食料を依存しなければいけなくなります。
 
自給率”0”になれば、他国から100円で買っていたバナナは、10000円でも変えなくなるかもしれません。他の国の命令を聞かなければ、食料を与えてもらえない国になるかもしれません。
 
それでよいのでしょうか?????
 
ルールを整備していくことや、一次産業者の税制を考える事など、いろいろな手段を講じなければいけませんが、一番大切な事は、皆さん一人ひとりの食に対する意識を高めることだと考えています。
 
皆様、このままでよいのでしょうか!!!
 
posted by 徳岡邦夫 at 20:47| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月14日

クリスマス

クリスマスの語源は、ラテン語「クリストゥス・ミサ」の略で、Christ(キリスト)+mas(礼拝)を意味するとされています。
 XmasはX(ギリシャ語で「Xristos」の頭文字)+mas(礼拝)。
       
Xristos(クリストス)は「油を注がれた者」という意味で、「救世主」「キリスト」を意味するそうです。 クリスマスの由来は諸説ありますが、古代ローマで冬至の日に行われていた「太陽神の誕生祭」や「農耕神への収穫祭」が、後にイエス・キリストの生誕祭と結びつき、クリスマスになったといわれています。


 当時のローマでは、太陽神を崇拝する異教が大きな力を持ち、12月25日を太陽神を祭る祝祭日としていたそうです。 そこで、初代キリスト教の指導者達が、異教徒との対立や摩擦を生むことなく異教徒にキリスト教を広めるために、12月25日はクリスマスとされたそうです。


 すりより作戦です。 根本的な理念で、12月25日に設定されたのではなく、普及さすために違う理念を持つ異教徒に擦り寄る為に12月25日と決められたのです。 だだ引きです!!


今や、日本では、そんなうんちくなど関係なく、幸せなカップルぶりを見せびらかし、幸せ度を他の人たちと比較しあう日になった様です。つまりは、 わたしは、こんなに幸せなんですという事を見せびらかす日になったように感じます。

 
飾りつけ。プレゼント。高級レストラン。高級ホテル。 二人のためだけではなく、その後、他の人に、自慢できるものが良いみたいです。そのせいか、ブランド品は、日本だけで、飛ぶように売れています。ブランド品と言うのは、そういう効果もあるのです。


 そういう事も確かに 幸せと思えるのも私も理解できます。が、幸せについて少し考えてはいかがでしょうか?
 

私も何をしたいのかを常に考えます。  最近思うのは、幸せとは、一生懸命できる、モトイ!夢中で出来る事があること!そのことが皆に認められる事。 (あなたを一生懸命愛しています。と あなたに夢中です。との違い。) そして、その皆に認められ夢中で出来る事を、持続できる事ではないでしょうか?
       
その環境に居て、夢中ですることが、皆さんの為に役立ち、皆さんから求められ、継続可能になることです。 必要とされることは、継続します。必要でないのもは、淘汰されるからです。
 皆さんの考えは、どうでしょうか?  もっと、感覚的なものなんでしょうか?
私が、仲のいいカップルを見てひがんでいるだけでした。
   
表現する事は、難しいです。        
伝える、相手が変わると、伝える方法が違いますし、伝えたいことも、変わります。 
言葉、単語、文章その中に含まれている 人の気持ちを汲み取る事も大変難しいです。大半は、理解したと錯覚しているのでしょう。 


間違ってはいないにしろ、表現された物を100%理解する事は、ありえないことなのです。 伝わった気持ちになっているだけ、理解したと錯覚しているだけなんでしょう。 ただ、それでよいのでしょう。 バランスが取れていれば良いのです。  

 

お客様の「おいしかったよ!」という言葉は、本当なのか?        
どのくらい美味しかったのでしょうか?
どこと比べて美味しかったのでしょうか? 

案外私は、神経質な臆病者のだと気付きました。 
又おいでいただいているのだから良しとしましょう。   

     
好調で 幸せな時ほど、その後の事を考えてしまいます。 
考え抜いた物事は、わかりやすく表現できると思います。 
私は、まだまだ、修行が足りないという事でしょう。 

 
常に、問題意識を持っていると、ふとした瞬間に、解決する事があります。 

悟りとは、そういうものなのでしょう。
       
または、一度悟る事より、常に高く意識を持ち続ける事が大切なのでしょう。  
その事を、環境の整った禅寺ではなく、実働社会で解決していかなくては、いけません。

大変な世の中です。 
ですが、だからこそ、やりがいがあると感じています。 

 
くにお!ファイト!!        
 
posted by 徳岡邦夫 at 17:58| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月07日

「食と教育を考える」

京都大学コンソーシアムの学生さんたちとお話している中で、下記のような企画が、実現することになりました。皆さんも参加下さいね。
その企画書を紹介します。


企画書
WORKSHOPたい夢 Third!!

文責:西野毅朗 森本英督
作成者:森本英督

 
(1)今回のテーマ:「食と教育を考える」〜これから親となる若者へのメッセージ〜
 

(2)企画経緯:
日本には様々な課題が存在する。外交、財政、福祉、環境…。多くの問題が企画者の中にも思い浮かんだ。しかし、京都高級料亭吉兆の総料理長である徳岡邦夫氏とお話するまで、私たちが気付かなかった大きな課題に気付かされた。それは食に対する課題である。
 日本の抱える問題として「食」を第一に挙げる学生は、ほとんどいないだろう。しかし、「食」の問題(食生活、自給率、食育等)は想像以上に重要であり、考えておかなければならない事柄である。これから親となり、子を育てる立場となる学生にはなおさらであると考える。次世代へ「食」の重要性を伝えていくのは他ならぬ私たちであるからだ。
そう考えた企画者(西野毅朗、森本英督)は今回の企画を通して、食への課題に対して、広く学生に考えてもらいたいと考え、企画立案に至った。

 

(3)達成目標:
「日本における食に対する問題」(食育・自給率・食生活等)をより多くの参加者に発見してもらったり、食に接する際に少しでもそのようなことを考えてもらえるようにすること。これから親となり子供を育てる世代(私達学生)に、特に食育について、考えてもらえるようにすること。

 
(4)主催:学生団体『縁counter』
 
(5)共催:京都市教育委員会
 
(6)場所: 京都市総合教育センター
 
(7)日時:2006年12月13日(水)19:30〜21:30
 

(8)ゲスト:門川大作氏(京都市教育委員会 委員長)
       本間正人氏(NPO法人日本学習学協会 理事)
       乾 明紀氏(大学コンソーシアム京都 総括主幹 「たい夢」後見人)
               徳岡邦夫氏(京都吉兆 総料理長)

 

(9)内容:
1. 自己紹介をグループ内で行なう←自己紹介の中で「食に対する思い出」(給食・おふくろの味etc…)を語ってもらう。<15分>

2. グループワーク 〜日本の食についての問題(仮名)〜 でブレスト<20分>
3. ゲストによるパネルディスカッション 〜食と教育〜<60分>
4. 懇親会
 
(10)参加費:100円(予定)
 

(11)学生団体『縁counter』
 学生団体『縁counter』は、人と人との出会いが大きな刺激となり、学生一人ひとりの可能性を大きく拡げると信じ、様々な「出会いの場」の創造をその活動方針としています。ただ単に出会いの場を創造するだけでなく、学生に考えて欲しいテーマを毎回設定し、共に考え、共に学ぶ、刺激受発信の場の創造を心がけています。具体的にはワークショップ「たい夢」を3ヶ月に1回のペースで企画しております。


第1回は今年6月に同志社大学で行われました。「自分、他人、将来」というテーマをもとに、らーのろじー株式会社代表取締役の本間正人氏、人事コンサルタントの櫻井照士氏やコンソーシアム京都の乾明紀氏をお招きしてワークショップを開催した次第です。
第2回は今年9月に同じく同志社大学で「大学Link社会〜学生と社会人の差はなに?〜」をテーマにワークショップを行いました。ゲストには第一回に引き続き、本間正人氏と、参議院議員福山哲郎氏をお招きしました。
毎回60名近い学生(大学、学部、回生は様々)が集まり、熱い会が開かれています。この場をきっかけにして、「自分を反省することが出来た」「前進できそうだ」「インターンシップをはじめることにした」「政治家に対する意識が変わった」といった意見もいただき、それなりの効果を革新しております。
今後も、出会いと刺激を享受できる場の創造に、私達『縁counter』は注力して参ります。

総合マネージャー:西野毅朗(同志社大学政策学部2回生)
総合アシスタントマネージャー:森本英督(同志社大学商学部2回生)
外部顧問:乾明紀(大学コンソーシアム京都 総括主幹)

他、メンバー4名
 
 
開場で、お会いしましょう!!


 

posted by 徳岡邦夫 at 17:57| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月30日

少し変ですよ!!

この時期忙しくてプログ更新できてなくてごめんなさい。


忙しい中で感じることがあります。最近、少し変ですよ!!


先日、祇園にある私の友達の甘味屋さん「徳屋」さんで、「今月最高大入り」になりますた。という事で、アドバイスをしていることから打ち上げの席に同席いたしました。

ささやかですが良い会でした。
 
そこで出た話ですが、あまりにも予想以上のたくさんのお客様がおいでになり、閉店少し前に、焚いた小豆が無くなってしまったそうです。お並びになっている方々にその事のお詫びを申し上げ、メニューは、「わらび餅」だけになる事を伝えし御了承を得て、入店されたにもかかわらず、怒り出す方がいらっしゃるそうです。


シーズン中、私たち嵐山住民は、身動き出来なくなります。根本的に、4月、10月、11月のシーズンだけに京都に訪れる必要があるのでしょうか?四季を通じて京都の良いところは、あると思います。その事を、旅行業者や観光に来る方々も考えるべきかもしれません。


そういうオン・シーズンになると、「皆でわたれば怖くない」的に嵐山吉兆の門からアプローチに掛けてや、建物の中に了承無しに入ってこられる方々、写真を撮られる方々が沢山いらっしゃいます。私どものお客様がお帰りの際には、そういう方々は、大変迷惑します。「大変申し訳ありません。」という事で、敷地内から出ていただく事をお願いするのですが、そこで、逆ギレされ怒り出される方がいらっしゃったりします。

 
私有地に勝手に入ってきてです。
ひどいのは、そのような方が度を越しているので、近くにいたタクシーの運転さんが、注意を促すと、そのことに対して、私どもにお怒りの電話を掛けてこられる方がいらっしゃいました。
 
御自分のされていることはかえりみず権利ばかりを主張される方が、多くなっているように思います。
 
最近、メディアに露出する機会が、多いのですが、そのことについて、見知らぬ方から、こうあるべきだという説教を電話にて受けました。
 
「品格がない!」とおっしゃってましたが、私共料理屋が忙しい時間に一方的に電話を掛けてきて、私、徳岡邦夫を呼び出すように怒鳴り、ご自分の感覚だけで、反人道的な事を強制するような思い込みを延々と感情的にお話しになりました。
 
貴方の事を思ってと言うような、そして他の方もいらっしゃるようで、その方々へのアピールなのかだんだんエスカレートするようなお電話でした。品格がないのは、どちらなんでしょうか?
 

こんなことが、すごく多くなっています。
それでよいのでしょうか!!!こんな日本でいいのでしょうか?

 

いろいろ考え出た私の答えは、「これで良いのだ。」と思っています。
そういう環境で、共に豊かに生きる知恵を育むことが、大切なのだと思います。

 
つまり、そういう方には、必ず負のエネルギーが働きかける事になっているからです。
 
その事を、はけ口に、私どもの気持ちをプラスマイナス「ゼロ」にするという事ではなく。
私どもは、出来るだけの事をすることに、情熱を燃やし、そのこと自体が「楽しい」ですし、そこに充実感、しあわせを感じるからです。物事のバランスと言うのは、大変公平です。
 
宇宙の摂理のように、エネルギーは、形を変えて均衡を保とうとするわけです。
 
本当に幸福になりたいのなら、本当に得したいのなら、物事の道理、物事には、「原因」と「結果」があることを、良く知る事だと思います。そのことは、複雑に連動しているという事です。それは、読んで知るのではなく、体験の中から知る事が、大事なように思えます。
 
そういう教育を、次世代の為に、京都教育長の門川大作氏や京都堀川高校校長荒瀬克己氏と進めています。
 

形になるのには、時間がかかると思いますが、あきらめないで、少しずつでも前に進みたいです。

posted by 徳岡邦夫 at 13:27| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月15日

万有引力。

アインシュタインの本を読んでいると、ニュートンの万有引力の話が出てきました。
 

すべての物には、引力がある。
人間は、地球に引き付けられているだけでなく、人間が地球を引き付けてもいるそうです。


引き付ける力は、質量と比例していて、質量が大きいと、引力も大きくなるという事です。

地球の質量は、大変大きく、人間の質量と比べると、桁違いだそうです。
それで、人間が地球を引き付けている引力をなかなか感じることが出来ないのでしょう。

と言う事は、人間には引力があるという事ですね。


人間同士でしたら、どうなのでしょうか。引力を感じることが、出来ると思いませんか?
人を引き付ける力のある人は、居ます。それは、万有引力と関係するのでしょうか?

 
と言う事は、質量の大きい人が、大きな引力をもっているという事になりますね。


人間にとって、質量が大きいという事は、体重が重いことでは無い様に思います。

人間にとっての、質量とは、いろいろな経験を体験してその経験を生かしている人の様に思います。いろいろな経験をぎゅっと圧縮して詰め込んで持っているのでしょう。


辛い事、苦しい事から逃げ出すのではなく、そういう経験から学び取るべき物を学び、自分の物にすることで、質量が大きくなっていくような気がします。
そういう人は、どういう人に対してフラットであるようにも感じます。

 
そういう質量の大きい人になりたいと思います。
今の私は、体重だけは、大きいのですが、、、、、、。
 

星の場合も、経験が質量に結びついているような気もします。
経験を学ぶ星とは???
そういう環境が、必要なのでしょう。
人の場合も、環境は、大事です。

そういう環境を自分自身で、作るところからはじめたいと思います。

posted by 徳岡邦夫 at 13:05| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月12日

無位真人。

無位真人(むいのしんにん) この句は、臨済禅師が説法で「赤肉団上に一無位の真人有り。常に汝等諸人の面門より出入りす。未だ証拠せざる物は、看よ看よ」と言った事に由来す様です。 「赤肉団上」というのは人間の肉体のことです。
       
「一無位の真人」とは、あらゆる世俗な事、具体的には階級制度なんて言う先入観、固定観念からはなれフラットな考えが出来き行動できる人の事だと感じています。


赤肉団上には、あらゆる世俗な事、具体的に階級なんて言う先入観、固定観念からはなれフラットな考えが出来き行動できるモノ(真人)が、ちゃんと備わっていますよ。 そのモノは特別な物や事ではなく目や耳や鼻から出たり入ったりしているでしょう。
       
その真人がわからない人は とっくりと看るがよい。

ここの流れは、「そこで説法を聞いているではないか。おまえさん自身だよ。」という意味のように 思います。
       
この文章を今、読んでる貴方は、あらゆる世俗な事、具体的には階級制度なんて言う先入観、固定観念からはなれフラットな考えが出来き行動できる人ですよ! と言う事です。
ただそれを疑わず 努力すれば その人には無限の力が有るのですが、疑う事で何も出来なくなり全てを無くしてしまうのです。
       
テニスをする前から自分は うまくなりっこないと思ってテニス部に入部しても テニスはうまくもならないし 、楽しくないでしょう。

そして、そこからは何も得る事はない様に思いませんか?
       
就職にしても どうせ たいした事は出来ないと初めから思って入社していたら、 指示を待っているだけのリストラ対象社員にしかなれないでしょう。
       
仕事の上で、向上心、貪欲さ、好奇心、優しさ、などを持つ事が出来ず、充実感や自分自身の存在価値なんかも感じれないままで定年を迎えてしまう事になるでしょう。
       
その結果、その職場からは、何も得る事が出来ないで終わってしまったと 思い込んでしまうのでしょう。
       
そして一生一度なのにつまらない人生を送るハメになるのではないでしょうか?
臨済禅師がこの説法している時一人の僧が、「その一無位の真人とは どういう人なんでしょうか?」と尋ねたらしいです。
臨済禅師はその僧の 胸ぐらをグイとつかまえて、「まだそんな事を ゆうておるのか!さあ、もっと言うてみよ!!」と迫ったそうです。
その僧が 何か言おうとした時 臨済禅師はぱっと手をはなし、「「一無位の真人」といったら 又ひっかかったか。「一無位の真人」、何じゃとそんな物は犬の糞じゃないか。」と言って方丈に帰ってしまったそうです。


「禅語」とか「吉兆」、「社長」、「禅師」、「大臣」、「ボランティア」、「スローフード」そんなもんは、みんな糞ではないか!! と言っておられるんだと感じています。

 臨済禅師が言っているから、全て素晴らしい事だとは限らないですよ!
       
反対に、殺人犯が言っているから 全て 嘘とは限りません。
身に付けているのも全てが高級ブランド だからその人は 素敵なんでしょうか?
一事が万事ですが、 外見だけではなく、外見も中身も含めた全てで判断するべきだと思われませんか。
       
皆さんは出来ていますか?「一無位の真人」と言う言葉や知識、文化的作法を知っていること 表面的なブランドで物を選んだり 判断する事を基準にするのではなく、あらゆる世俗な事 具体的に表すと階級制度、国、肌の色等の違いを理解しようと努力しながら、先入観、固定観念をその瞬間、離れフラットな考えが出来き行動できる事、そして その責任を取る覚悟をする事が 大事なように感じています。
       
今、就職活動をされている方も就職して何年もたった方々も 高い意識を持って 自分自身で体験し その中に潜む本当の事を洞察できる目を持って そして自分の力を信じて就職や、就職活動をして頂きたいです。

御自分の人生ですもの!!将来の目標として、沢山の資産を持つ事もいいかもしれません。
       
名誉のある役職に就く事も素敵です。私は、沢山のいろんな分野で懸命に頑張っている仲間が欲しいです。
       
その為には、私も頑張らなくてはなりません。
お金も必要ですし、ある程度社会から認めてもらわなくては駄目でしょうね。そういう環境を選んだり、作ったりせねばなら無いでしょうね!

そういう環境としては、京都吉兆は最高ですよ。
 
posted by 徳岡邦夫 at 22:45| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月10日

喫茶去。

「喫茶去」という禅語があります。


「喫茶去」(きっさこ)の「去」は、 助辞で意味はなく、全体で「お茶でも飲みませんか?」という程度 の 意味らしいです。


ある時、趙州禅師が一人の僧に 「かつてここに来たことが在りますか?」 と尋ね僧が、「在ります。」と答えると、趙州禅師は「喫茶去」と声をかけたそうです。


又あるとき禅師は、別の僧にも同じように 「曾つて此間に到るや」と尋ねる時があったそうです。
「曾つて至らず」との答えにも また禅師は、「喫茶去」と声をかけたそうです。    

   
そこで、院主が趙州に対して「ここに来たと言っても、来なかったと言っても一様にお茶でも飲みませんかとおっしゃるのはどういう訳ですか?」と問うと趙州禅師は、 「院主さん」と呼びかけ「喫茶去」と声をかけたそうです 。


禅語なので 深い意味がありそうですが、 私が思うに、趙州禅師は、 大変高齢まで生きられたと言うことですのでタダのんびり、誰とでも仲良くお茶を飲みたかっただけなのではないでしょうか?

 
のんびり、ぼ〜と、お茶でも飲みますか。。。
 
私は、そのような時間をなかなか得ることが出来ませんので、お茶をすすっているような心持で、落ち着いてことに望む事にします。
 
失敗もまた利なり。
 
posted by 徳岡邦夫 at 20:26| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月02日

後輩へ。

京都吉兆に内定が決り、インターン制度を体験している学生から質問がありました。
興味深いので皆さんも、考えてみてください。

 
質問)突然ですが、お造りで、器が四角の時、 御醤油入れは丸で、 その反対でお造りが、丸の時は御醤油の「のぞき」は四角と聞きましたが、 なぜなのでしょうか?
 

返信)センスの問題です。 近頃、形式だけに なっている様に感じますが・・・・・・・。
洋服でも一緒で、ベースがこの色だから鞄はこの色にしよう。 形は、こっちがいいかもと思うのと基本的には一緒だと感じています。 同じ色、同じ形ではなく対比されお互いに 相乗効果を生む物を選ぶと言うことです。
 
ただ、洋服と同じで、一色に統一するというセンスのあり方も存在します。
長い間の積み重ねで、日本文化的な物は、統一する努力ではなく、工夫する努力に重きを置くようになっていると思います。
 
反対に、西洋では、統一する事に価値を、見出すところが多いように見えます。
ペアールック、 ドレスでも単一の色の物が、多い傾向にあるように感じます。
食器では、お皿もフォーク、スプーン、ろうそく立て すべて統一します。
然し、日本では、着物は、単一のコーディネートは、 喪服だけです。 食器は、料理ごとに違います。 
異論はあると思いますが、根本的な事を考える事にしましょう。 
日本にしても西洋にしても、どうしてそういう努力をするのかと言う所です。
そのポイントが、核心の問題であると思います。 

 
私が思うに、根本は「自分を 良く見せたいから」 だろうと思います。
 
誰にでしょうか?
 
周りにいる人にです。
 
ですから、こういう行為は、伝えたい人に、 伝わらないと意味がないと言うことです。

もしくは 吉兆と同じセンスを持っていと人から思われること。 利休と同じセンスを持てるように見えることが、、、
       
もしくはエルメスの鞄を持って歩く行為は、 その人の安心や、その人が自分自身で感じる豊かさにつながるっているのです。


器の選択の場合、お客さまに対して、その様な事を配慮しながらチョイスし、サービスを実行し、思いを、情熱を、考えを尽くしていると言うことが、伝わればベストだと言うことです。 

 

その伝え方が、露骨では、引かれるだろうし、人によっても伝え方が 違うだろうし受け取り方も違う。 ですから本当は、お客さまによってその好みを知り、「はまるサービス」を出来なくては成らないのです。
「健全なサービス」を追い求め、毎回実現して頂き たいですが、なかなか一長一短には、いきません。 そこでマニュアル化されたのが 日本文化的作法という物です。 
       
その中にある 手順、方法、組み合わせ というのはあくまでマニュアルです。 何のために マニュアルがあるのかが大事だと思います。 お客さまの気持ちを汲み、それに対応し、気持ちを伝えへ、その気持ちを感じてもらい、少しでも喜んでもらい、目標としては感動して頂く、そのためには、どうしたらよいか? そう考えれることが、大切です。 


その規則を実行しないと先輩に怒られるから動くのでは無いと思います。 そんな仕事は、すぐ、いやになってしまいます。 形式化された物の中にある本来の「相手を思う気持ち、情熱」という核心が、重要なのです。
ですから、そのお客様が、毎日古典的な日本料理屋さんに行かなくてはならない人で、日本的な物に飽き飽きしている人が、もしいれば、統一した食器で サービスすることは 大変すばらしい表現だと思います。 その方にも貴方の情熱が伝わるでしょう。 

 
ただ、今までの積み重ねを知らずして・・・。 
 
つまり、鎌倉時代の桃山時代のすばらしいセンスを知らずして、そういった表現は、技術的に出来ないでしょう。 そしてその事を遂行するためには、一人の力では遂行できません。 


その気持ちを一番伝えなくてはいけないのは、先輩、同僚、 後輩、調理場さん等の人々なのです。

今後の一層のご精進を 期待しています。
 
posted by 徳岡邦夫 at 19:20| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月01日

一瞬への想い。

お茶は、国境を超越した人間文化として、東西文化の架け橋として多大な役割を担ってきたといって良いと思います。
 

特に、日本では、茶道として確立しました。
 茶の湯は、宗教の教義を説いているわけではありません。茶の湯は、人 間の最も根源的な行為、即ち、人と共に座って、食事をしたりお茶を飲んだりといった事を、概念的にも具体的にも凝縮された結果、生み出された物なのでしょう。

 
我々が今日、「茶の湯」という言葉で呼ぶものを確立した人、千利休 (1522-1591)は、「茶の湯とは、ただ湯をわかし、茶を点てて、呑むばかりなるを知るべし」と言いました。 
 

茶の湯の世界には、次のような一筋があります。 「今この茶会は生涯でただ一度のものである」(一期一会)。 「庭の小道に入った瞬間からそこを去るときまで、この茶会は生涯ただ一度の ものであると心に銘記して、亭主に対して最大の敬意を払わなくてはならない」。
       

このひと時、寸時を大切にするという態度は、人と人の出会いの全てに通じる 大切なものです。
弟子が師から教えを受けるとき、あるいは私たちが同僚や友 人や家族に会うとき、今という時の重要性を理解していれば、自ずと真心が現れます。
 
また、このような「一期一会」の気持ちは料理との出会いにもあてはまると思います。
 
一口で好きになる料理、飲む程に旨くなる酒、個性の強い味、個性は弱いが飽きのこない料理、印象に残る料理、印象に残る盛り付け、未知との遭遇があります。
料理も一期一会の繰り返しなのです。
 
世の中に数多くの出会いはあれど、同じ場所、同じ時間の出会い、味は2度とはありません。従って、 一つ一つの出会いを楽しみながら、その瞬間を大切にしていきたいと思っています。
さらに、そうした出会いを通して、人と人、人と歴史との出会いが実現します。
そこには何百年も昔にその歴史を作った作者との出会いや、時代の変遷を経て愛でられ続けてきたものとの出会いもあります。
 
一期一会の臨場感とはそこから生まれてくるものだと思います。
その日、その時の出会いを大切にしたいと思います。
縁合ってお会いできた方々とは、世界のいたるところであっても、文化も歴史も全く異なっているとしても、料理を媒体にして、全てを超え一つに融和できれば良いと思っています。
同時に、皆さんにとって、その時の料理が忘れられないひと時になればこれほど 嬉しいことはありません。 一期一会:生涯にただ一度見えること、一生に一度限りの出会いであること。

詩人Browningも
        "Once, Only once, and for one only"
        (一度、ただ一度、そして一人の人に)といっています。 

 
posted by 徳岡邦夫 at 21:29| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月22日

萩の開花時期は、6月中頃〜10月末頃です。  豆科で秋の七草のひとつです。
日本各地の山野でごくふつうに見られ、萩といえば山萩を指しっているように思います。 
「萩」の字は、”秋”の”草(草かんむり)”なのでまさに秋の花ですが、早いものは夏前から咲き出しています。(今、嵐山吉兆の待幸亭では萩が咲き乱れようとしています。)
 
花は豆のような蝶形の花です。枝や葉は家畜の飼料や屋根ふきの材料に、葉を落とした枝を束ねて箒(ほうき)に、根を煎じて、めまいやのぼせの薬にするなど、人々の生活にも溶け込んでいいたようです。 秋の十五夜に、薄(すすき)、おだんごと一緒に 縁側などに置いて供える習慣がある地域もあるそうです。
 
地上部は一部を残して枯死するため、毎年新しい芽を出すことから「はえぎ(生え芽)」となり、 しだいに「はぎ」と呼ばれるように なったと聞きました。
 
あんこのおもちに「ぼたもち」と「おはぎ」が ありますが、じつは同じものです。
春のお彼岸に食べるのは、春を代表する花の 「牡丹(ぼたん)」にちなんで 「牡丹餅」→「ぼたんもち」→「ぼたもち」と 呼ばれ、秋のお彼岸に食べるのは、秋を代表する花の「萩」にちなんで「萩餅」→「おはぎもち」→「おはぎ」と 呼ばれるようになったらしいです。 ヘーェ〜!!

各地で 呼び名が違い 「庭見草」(にわみぐさ)、「野守草」(のもりぐさ)、「初見草」(はつみぐ)と呼ぶ所もあるようです。
9月18日の誕生花で 花言葉は「柔軟な精神」、宮城県の県花 でもあるそうです。
 
萩を 詠んだ歌は 沢山あります。

 

一家(ひとつや)に
         遊女も寝たり
                 萩と月      松尾芭蕉

白露を 
      こぼさぬ萩の 
             うねりかな    松尾芭蕉

わけている 
       庭しもやがて 
            野辺なれば
          萩の盛りを
                     西行法師

秋風は 
     涼しくなりぬ 
          馬並(な)めて 
    いざ野に行かな
             萩の花見に
                     万葉集   

 

人皆は
      萩を秋といふ
                よし我は
       尾花が末を 
            秋とは言はむ
                             万葉集
    
わが岳(おか)に 
        さを鹿来鳴く
             初萩の
    花妻問ひに
           来鳴くさを鹿
                   万葉集
     
高円(たかまど)の
           野べの秋萩 
              いたづらに
    咲きか散るらむ
          見る人なしに
                      万葉集 

 

高円(たかまど)の 
          野べの秋萩 
             この頃の 
   暁(あかつき)露に
         咲きにけるかも
               大伴家持 万葉集 

 

指進(さしずみ)の
        栗栖(くるす)の
               小野の
         萩の花
            花散らむ時にし

 
posted by 徳岡邦夫 at 21:11| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

萩の開花時期は、6月中頃〜10月末頃です。  豆科で秋の七草のひとつです。
日本各地の山野でごくふつうに見られ、萩といえば山萩を指しっているように思います。 
「萩」の字は、”秋”の”草(草かんむり)”なのでまさに秋の花ですが、早いものは夏前から咲き出しています。(今、嵐山吉兆の待幸亭では萩が咲き乱れようとしています。)
 
花は豆のような蝶形の花です。枝や葉は家畜の飼料や屋根ふきの材料に、葉を落とした枝を束ねて箒(ほうき)に、根を煎じて、めまいやのぼせの薬にするなど、人々の生活にも溶け込んでいいたようです。 秋の十五夜に、薄(すすき)、おだんごと一緒に 縁側などに置いて供える習慣がある地域もあるそうです。
 
地上部は一部を残して枯死するため、毎年新しい芽を出すことから「はえぎ(生え芽)」となり、 しだいに「はぎ」と呼ばれるように なったと聞きました。
 
あんこのおもちに「ぼたもち」と「おはぎ」が ありますが、じつは同じものです。
春のお彼岸に食べるのは、春を代表する花の 「牡丹(ぼたん)」にちなんで 「牡丹餅」→「ぼたんもち」→「ぼたもち」と 呼ばれ、秋のお彼岸に食べるのは、秋を代表する花の「萩」にちなんで「萩餅」→「おはぎもち」→「おはぎ」と 呼ばれるようになったらしいです。 ヘーェ〜!!

各地で 呼び名が違い 「庭見草」(にわみぐさ)、「野守草」(のもりぐさ)、「初見草」(はつみぐ)と呼ぶ所もあるようです。
9月18日の誕生花で 花言葉は「柔軟な精神」、宮城県の県花 でもあるそうです。
 
萩を 詠んだ歌は 沢山あります。

 

一家(ひとつや)に
         遊女も寝たり
                 萩と月      松尾芭蕉

白露を 
      こぼさぬ萩の 
             うねりかな    松尾芭蕉

わけている 
       庭しもやがて 
            野辺なれば
          萩の盛りを
                     西行法師

秋風は 
     涼しくなりぬ 
          馬並(な)めて 
    いざ野に行かな
             萩の花見に
                     万葉集   

 

人皆は
      萩を秋といふ
                よし我は
       尾花が末を 
            秋とは言はむ
                             万葉集
    
わが岳(おか)に 
        さを鹿来鳴く
             初萩の
    花妻問ひに
           来鳴くさを鹿
                   万葉集
     
高円(たかまど)の
           野べの秋萩 
              いたづらに
    咲きか散るらむ
          見る人なしに
                      万葉集 

 

高円(たかまど)の 
          野べの秋萩 
             この頃の 
   暁(あかつき)露に
         咲きにけるかも
               大伴家持 万葉集 

 

指進(さしずみ)の
        栗栖(くるす)の
               小野の
         萩の花
            花散らむ時にし

 
posted by 徳岡邦夫 at 21:09| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月16日

節句

アジアの古代文明国・中国では対になっている ことを好み、偶数を尊び、奇数を重ねた月日は、陽が極まると陰を生ずる日として避邪の行事を開催していたようです。そういう行事が行われたことから節目となったと思われます。
      
奇数を重ねた月日に避邪の行事を開催していた理由は、故事に不吉な物語が多いことからも 連想できそうです。
例えば漢の章帝のとき 平原の除肇が三月に 三子を産み 三日に至って三子が 皆亡くなったと言う事です。
そこで一村がこれを怪とし、ともに水辺に出て そそぎ洗いし汚れをはらい、盃を流したという記録が有るようです (続斉諧記)。
     
「節供」というのは、もともと節目のお供えの事で、 それが後に節日 そのものも指すようになったそうです。 
邪気を祓うものは、その時期の植物やそれを 材料にした食べ物が選ばれた様です。


日本にもこの習俗はそのまま伝たようで、 時としては義務として領主に敬意を表して 訪問する五つの時節だったりもしました。 
  
江戸時代に 邪気を祓い無病息災を願う一方、 子供のすこやかな成長を祈る節句の性格が 強まり、国民的な祝日となり、 民衆から圧倒的な支持を受けたそうです。
        
その後、現在では どの様な価値が 節句に見出されるのでしょうか? 

 
少し考えても、面白いかも???
posted by 徳岡邦夫 at 17:25| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月15日

にんじん

 ニンジンの原生地はアフガニスタン北部の山岳地帯といわれているようです。 もともとは黄色いものが主流だったようですがアフガニスタンから、ヨーロッパに伝わった西洋系は15世紀以降、オランダで品種改良が進み、芯までオレンジ色のいわゆるカロチンニンジンとよばれるものが登場したそうです。
この西洋系のニンジンは江戸時代後期にオランダとアメリカから日本に伝えられたそうです。
 
一方でアフガニスタンから中国に伝わった東洋系は江戸時代初期に日本に伝わりますが、こちらは独特のクセがあったのと、育てるのも難しかったので、西洋系が一般的になりました。 沖縄の琉球ニンジンや、香川、京都の金時ニンジンなどは東洋系のニンジンだそうです。 西洋系はカロチンが豊富で、東洋系はリコピンなどが多く含まれて発ガン抑制効果があるとして注目されているようです。
       
ちなみに「キャロット」の語源はカロチンから来ていると言う事です。  一般的には、ニンジンは輪切りにしたときに、葉に直接つながる「芯」の部分が小さい方が良いといわれています。
   
まわりの「肉」の部分だけが大きくする為 肥料を与えすぎると、全体の味は薄くなってしまう事もあるようです。 
       
基本的には土の力が 大きな要因に成るようです。  土を作ることは 簡単には 出来ません。 長年の健全な 営みの中から 必然として出来上がっているのでしょう。
京都に有機認証を取得している野菜生産農家は 今年で5農家だけだと聞いております。
    
京都では、有機認証を 取得する必然性が 無いからだと思います。 
京都の野菜は 京野菜として 全国に求められ 市場の1.5〜3倍の価格で販売されています。
農家にとって減農薬で 充分売れるのです。 自分達家族が食する物以外の野菜には、つまり商品には、減農薬にさえ変更しようとしない農家も有るでしょう。

「子どもたちが正しい食べ物を選択できるようにするためには、絶え間ない親の工夫がなによりも大切なのでしょう。」
この事に つきると思います。 

生産者の方々も 流通に関与している方々も 一般消費者、飲食店や食品加工業者の方々 添加物製造メーカーの方たち、皆さんの子供たちが正しい食べ物を選択できるようにする為に、絶え間ない工夫をしていると言えるでしょうか?

環境の破綻は、生命存続の危機です。 それぞれの立場 環境において 「どうしようもない。」と思われる事も沢山あるでしょう。
 しかし、「このままでは・・・・!」と思っているのは 自分一人ではなく 自分自身を信じ、まず一歩 進んでみる事が 大事なように思います。
    
そうして 点が線になり面になり立体的な球になり、一方方向ではなくどの方向にも 膨張していけば すてきな 環境に成ると思っています。
 が しかし 必然性が伴わないのです。  いろいろな考え方は有るでしょうが 簡単に言えば、土の健全化に大変な努力をし、お金をかけて、わかりにくい手続きや、日々のめんどくさい農業日誌を付けたり、どれだけの作物が今日何処に出荷したかなど財布の中を探られるような事まで申告しなくとも そこそこの収入が効率よく手元に入り節税できる方が良いに決まっていますよね。
 
他府県では もう今までのままでは生活が 成り立たなくかも知れない。と言う思いがふくれあがっているようにもみえます。 信用というブランドを早く作り上げなければ もしくは早く作り上げる事において他府県より有利に展開したいという思いが有るようにみえます。
すでに  市や県ぐるみで 「アグリパーク」など農家の方々とのコミュニティーが出来上がって成功を収めている所もあります。 また、農家の方々が集まり 会社を立ち上げみんなの力で 健全な物を作ろうとしているグループも有るようです。
 生活の中から自分たちの力で、何とかしようと言う必然が無ければ変っていかないのでしょう。人は弱い物ですから、どうしようも無くせっぱ詰まらないと、ほとんどの方は動かないようです。 その結果、農家の方々、各地域で自分たちの手で変革を起こそうというムーブメントは、大変わくわくするのですが、ただ目先の変わった事、今までになかった事、の羅列では、通用しないと思います。 
今までの積み重ねを知った上での、そして本質を知った上での提案、ベンチャー、試み、改革でないと即、排除されると思います。 見せかけの物に成って欲しくないです。 
       
スーパーの 農家の方の写真は、本物なのでしょうか?
生産者表示も 本物なのでしょうか?  食品の安全性に関しては、「トレーサビリティ(履歴追跡)」という概念が非常に重要です。
例えば、ハムの製造メーカーが、自社工場の工程では、食品添加物などを使用していないとしても、養豚業者が、出荷直前まで抗生物質などの薬剤を大量に使用しているかもしれませんし、豚に与える飼料に農薬が大量に散布されているかもしれません。
 製造メーカーが「安全なハム」と謳うには、それらのすべてがトレース(追跡)できなければなりません。 しかし、今回の調査で明らかになったことは、生産地すら把握してない食品メーカーがほとんどいうことで、栽培方法、飼育方法に至っては、ほとんど知識をもたないのが実情というわけです。
水産食品には こういう考え方が 一般化していないので 大変苦労します。  
流通業者は、もっとひどい!!農薬、防腐剤使いたい放題、国によって基準が違う 国内用、輸出用で基準が違うらしい 自分たちが食する物は 安全で 輸出用は、お金になれば 其れで良い。  
話し合いが必要なのか 何が必要なのでしょうか健全化するために 地球外に敵が現れたら 地球は一つになるのかな・・・・・?
 虚偽表示など、食品の安全性をおびやかす事件が相次ぐ中、食品メーカーのこうした姿勢は問題視されなければいけませんね。子供たちのために!!次の世代の為に!!! 私たち消費者や飲食店も、多少価格が高くても、素性のはっきりした、高い基準のトレーサビリティが確認できる食品を購入するという「自衛策」を考えなければならないといえるのではないでしょうか。 家族で、ピクニック代わりに農家に行き、お手伝いをしながらお話しをする事も出来ると思います。 そういう、学校での課外授業がもっと増える事も、良いかもしれませんね。
特に京都の、小学生が、グループを作り、定期的に一般の農家を訪問し、「 農薬を撒いてませんか?」と質問してみるというのは、どうでしょうか?農家の方も、流通業者や消費者に嘘はつけても、子供に嘘をつきとうせるでしょうか。 今度、その提案を、いろいろなところで提案してみます。 水産業へも、目を向けたいですね。
       
考え方によっては、これだけ、堆肥を作り出す行程で出来る水溶性の硝酸態窒素とかによって、環境汚染されて続ける自然から取れる「天然物」より、ゆくゆくは、完全に管理されて作り出す養殖魚のほうが、安全でおいしい物になるかもしれませんね。
   

posted by 徳岡邦夫 at 20:00| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月09日

道の道とすべきは、常の道に非ず。 
名の名とすべきは、常の名に非ず。
名なきは、天地の始まり、 名あるは、萬物の母。
故に常に無欲にして、以ってその妙を観る。
常に有欲にして、以ってその徼を観る。 
この両者は、同じきに出でて、しかも名を異にする。
同じきを之を玄といい、玄のまた玄は、衆妙の門なり。

 

 『老子』の根本的な考えの源は「体験」ではないでしょうか? 
自分自身が体験していた自然界との触れ合いの中に哲学を見出されたように感じます。
     
「神」と言う概念を越えた所を見ていられたように思います。  古代の中国にあって、天の意思にもとづく祭政一致がとりおこなわれていたようですが、やがて自然そのものを天の意思から切り離して独自にとらえようとする動きが起きたように思います。
  
「陰陽五行説」と言われている物です。
「陰陽五行説」と言うのは、自然現象を陰陽の二つの気と火水木金土の五要素によって説明する考え方です。これが『老子』の体験した事と一致したのではないでしょうか?
  
老子の中では自然は、絶え間なく起こり、連鎖的に生まれては消えていく不変的な大きな物として、把握されていたのでしょう。
       
自然界を変化の一瞬としてとらえようとしたのではなく、宇宙やもっと広い空間の万物の変化を感じて、そこに一つの法則を見出そうとしたように思います。
       
それは真理、根本です。 この核心を、老子では『道』と呼んでいるように思います。 

すべては物質であり、たえず変化し発展するという法則があるのでしょう。

物質でみたされた全体そのものは、「道」がすべてを包括しているのでしょう。
       
「道」がすべてを包括しているのであれば、それは決まったルールであらわせないものであるのでしょう。
       
なぜなら、規定すれば、それは「全体」ではなくたちまち「部分」になるからです。   
       
すべてを包み込んでいる物は規定ができない。「これは、OOです。」と言う事が出来ないのです。 
       
だから無と一緒である。と考える事も出来るとおもいます。  しかし、現実は規定できる物の「部分」となって含まれているようにも思います。
 
つまり「有」となって、現象として成り立っているのです。
       
無から有が生じ、そこに変化を見、あるいは対立物の統一を見るという考え方も出来ると思います。   
「道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。故に常に無はもってその妙を観(しめ)さんと欲し、常に有はその徼(きょう)を観さんとホッス。この両者は同出にして名を異にす。同じくこれを玄と謂う。玄のまた玄は、衆妙の門なり」
      
「玄」とはすべての色を溶かしこんだ黒色のことで、「衆妙の門」とは森羅万象が現れ出てくるところという意味である様に思われます。「万物は流転する」というギリシア自然哲学と似たものも感じる方もいられるでしょう。
        
しかし、その様な事を考え思い悩み、世界をながめたとき、世界にある存在は、固定した一つのスタイルをとりつづけているという不自由なものでもない様に思います。
       
たとえば、AとBが対立しているからといって、その対立は絶対的なものでもなく、なにかの局面であっという間に相互が同一のもとなってしまう。そんなふうに、われわれの常識的で不自由な認識のモノサシをこえて、全体というものははるかに「豊かな」ありようをしている様に思います。
 
「天下みな美の美たるを知る。これ悪なり。みな善の善たるを知る。これ不善なり」
       
みんなは美しいものはつねに美しいと考えるが、実は同時に「醜」であることを知らない。また、人はだれしも、善はつねに善だと思っているが、善は同時に悪であることを知らない――という意味だろうと思う言葉も有ります。
 
ものごとの一面に固執しない、また、ある瞬間の歴史的な姿にとらわれない。
そんな事が大切な事のように感じています。 『老子』が伝えたい事は、なーんにもしない「無為」の哲学ではないように考えます。
      
その根底には自然に対する冷徹な観察があるのだと思います。
       
『老子』の「無為」とは、このような自然のありよう、自然の法則を、主観や人為を一切排して、冷徹に観察するという態度をしめしている様におもいます。
 
問題はそこからで、そうやって自然を冷静に観察し体験してえられた認識をもとに、リアルな行動、働きかけをおこなえ、というのが、『老子』が一番伝えたい事なのではないでしょういか。
 
たとえば、先ほど引用した、 「天下みな美の美たるを知る。これ悪なり。みな善の善たるを知る。これ不善なり」につづいて、『老子』では「ここをもって聖人は、無為の事に処(お)り、不言の教を行う」という実践を説いているようです。
 
「無為とは、手をつかねてなすすべも知らぬ態度を指すのではない。おのれの主体性を放棄して、成り行きに任せる諦念を意味するものでもない。認識を得たことをもって満足し、ひたすら知識のための知識を求める書斎派的姿勢は、由来、中国の思想家には無縁のものである。自然の法則の巨大さへの自覚は、同時に法則運用への意欲にも通ずる。無為、それは道を認識し、道の働きと一体化することである。換言するなら、法則を把握して、その法則をトコトンまで利用することである」
 
これが道だと言い表すことのできる道は、永遠不変の道ではない。 
       
これが名だと言い表すことのできる名は、永遠不変の名ではない。
       
まだ名のつけようのないところ「道」が、天地の始まりである。
       
天とか地とか名がつけられるところ「天地」が、万物を生む母胎である。 
       
常に無欲の状態にあれば、名のつかない、玄妙なる本質の世界を観ることができる。 
       
常に欲にとらわれていると、名で区別された、末端の現象世界しか見ることができない。
       
本質世界も現象世界も、同じ根本から出ているが、 欲の有り無しで見え方が違うために、名を異にする。
       
この同じ根本を玄(限りなき深淵)といい、玄をいくら掘り下げても、次々と新たな神秘なる本質が見えてくる。
       
自然科学が自然の神秘を解明すると、次の神秘の門が現れるのと似ているように思います。 理論ではなく、道は、自然の神秘を体全体で直観的に感じ、それを自分の生き方に生かして初めて、生きてくるのではないでしょうか。
 
まずは、馬券は、買わないと当らないですよね!!
事件は、会議室ではなく、現場で起こっているのですからね。
料理を論じていても お腹は満足しないですよね!
頑張って 相手の事を思い、廻りの事を思い、工夫して作ります。
今の日本で、楽しく 食べてもらえ、明日への活力になるような環境を作ります。

 
理屈ではなく、無心に出来る事を 行動に移してういると 「玄妙なる本質の世界を観ること」つまり奇跡が起こるかもね!!
 

私自身は、奇跡は、偶然ではなく 必然的におこると思っています。

posted by 徳岡邦夫 at 20:13| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月06日

一片の月。

「長安一片月」という御軸を拝見しました。


「長安一片月、万戸撲衣声」という禅語の前半部分です。 
「撲つ」は、「てへん」に「寿」という字、つまり「擣」と書かれていることがありますが、当用漢字にない字なので、 同じ意味らしい物を当てはめました。 「ちょうあんいっぺんのつき、ばんこ えをうつ こえ」と読みます。

これは李白の子夜呉歌(しやごか)という詩の中 に ある歌です。
李白は唐時代の大詩人です。
長安で月の光を浴び、あちらこちらで衣を撲つ音が 聞こえる。 と言う事です。漢字から読み取れる意味はそういう意味だと思います。
「衣を撲つ」とは洗濯をすると言う事だそうです。
衣を、たたきつけて汚れを取ったのだと思います。
もともと、奥さんたちが遠征している夫(兵士)を 思いながら月の光の下で衣を撲っている情景を歌った詩を、禅僧が別の意味を見出して、禅の世界に持ち込んだ物だと思います。
       
禅の世界からこの詩を見ると、「一」という数字と「万」 という数字が 対になっており、どの家でも、 この家でも、洗濯をする音は聞こえるけれど、その誰もが一片の月を眺めて、いろいろな思いにふけっている と言う情景から 「一即多」、 「一即全、全即一」という大定理を発想させるのだと思います。
        
マクロの世界でも、ミクロの世界でも、心理は一つであると言うことです。
物事は相対的に、 ただ起こっているだけなのです。
良いも悪いも無いのです。
あらゆる意味でのバランスをとりながらただ生まれ、ただ消えてゆく。
     
そして、森羅万象は、互いの因果関係の中にあります。原因と結果が必ず在るという事です。 
どちらか片っ方だけと言うことは、あり得ません。 
それと、1つの原因は、複数の結果に結びつき、反対に1つの結果は、複数の原因より成り立ちます。 
自分自身が思う良い結果が、ほしければ良い結果に結びつく原因を沢山あきらめることなくクリアー しなくては、結果にたどり着けないと言うことです。
       
反対に、あきらめれば永遠に思う結果になる事はあり得ないのです。
それを、ふまえて貴方は、どうしますか?
なにがしたいですか? と言う事です。

一事が万事。
誰かの所為でもなく、世間の所為でもなく、自分自身が起こした行動は、最終的に自分自身の中に戻っていくと言うことです。 
ただ考えすぎて先入観の固まりに成らないでくださいね。 

まずは、目の前の一歩から、ちっさな事から こつこつと!! がんばれ〜!!! 
と言う意味ではないでしょうか?

posted by 徳岡邦夫 at 20:04| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする