「兜率の三関」として禅宗の世界に恐れられる入門試験があるそうです。 兜率和尚の詰め寄る三つの問いです。
第一は、禅修行の目的は、只だ自己の本性を見定めることに尽きるのだが、お前さんの本性はこの瞬間どこにあるか見せてみろ。というもので、
第二問は、自己の本性さえしっかり掴まえておけば、死の準備は既に完了だが、 お前さんはいよいよ臨終という時、どのように死んでいくか。
また死んでからのお前さんの行く先はどこだ、と言うのが 第三問だそうです。
今でも日本中の坐禅道場では、「生死事大、無常迅速、時不待人、慎勿放逸」と書いた板を叩いて朝夕の時を告げることになっています。
生死の解決こそは最重要課題である上に、時間がどんどん過ぎて行くばかりで一時も気を緩めては ならないぞ、と言うわけでしょう。 それゆえ禅僧は昔からこの課題に取り組んで修行に励み、悟りを得て立派に人生を生き、そして惜しみなく死んでいったとされています。
では禅僧たちはどういう答えに至ったか。その例を調べてみましょう。
南北朝時代を生きた妙心寺の関山慧玄は、 生涯にただ一語、「慧玄が這裡に生死無し」を残して逝ったと言われています。
江戸時代初期の沢庵和尚は死に臨んで「夢」の一 字を大書し、「百年三万六千日、弥勒観音幾(ほと)んど是非、 是も亦た夢、非も亦た夢、弥勒も夢、観音も亦た夢、仏云わく、応に是の如き観を作すべしと」と添えているそうです。
2つの例ではありますがそうなると、禅宗としていったいどれが正解なのかさっぱり分からないということになるでしょう。
しかもどの人も 悟りによって生死を超えたと言われている人の死にざまに違いないのだから、どうやら禅僧の死に方には定型パターンというものがないらしい。ということになると、禅宗には定型となる信仰箇条のようなものさえないとなるのでしょう。
要するに禅宗では、いかに生き、いかに死ぬかは各人まかせ、これについては誰も教えてくれないと言うことなのでしょう。
多分、正解を知らなくても、良いのでしょう。 正しい生き方、正しい死に方なんて無い訳です。
健康な方が死を意識して生きていないと思いますが、「どう死ぬか?」と言うことは、「それまでをどう生きるか?」と言うことだと思います。
「死=無」なのですから。 エネルギー交換の法則と言う考えもありますし、脳死であるとか、どうとも答えが出せない問題もありますが、私自身は、「どう生きるか?」とか「私は、何をしたいのだろう?」と問い掛けながら、少しずつですが歩んでいるつもりです。
実行してしまったことについては、責任を取る覚悟でです。
年の暮れ、来年の為に、こういう事も考えても良いかもしれませんね。
ただ、付け加えて伝えたいことは、そのような事を考える事や、悟りを開くことに精進するのは、御自身の為だけにですか?
作麼生(そもさん)!!
【関連する記事】