碧巌録・八と言う書物の中に「關」(関、カン)と言う一字の禅語が有ります。
唐時代の翠巌令参(すいがんれいさん)禅師が、「私は長い間毎日、皆さんの為にいろいろと説法してきましたが、まだ私の眉毛は有りますか?」と尋ねられました。
これに対して保福従展(ほふくじゅうてん)禅師は、「盗人はやましい気持ちに、落ち着かないのであろう。」(賊となる人、人虚なり)と言い。
長慶慧稜(ちょうけいえりょう)禅師は「眉毛は大いに生えているよ。」と答え。
最後に雲門文えん(うんもんぶんえん)禅師は、「関」と一言叫んだそうです。
翠巌、保福、長慶の三人が相づちを打っているのを見て、雲門は、三人とも同じ穴のムジナだ、賊と賊と賊だ、みんな奴らは、まかり通さないと「関」という関門を設けたと言うことです。
仏教の経典の伝達では言葉や文字という物は、ちょうど月を示す時の指に等しい物だと言われています。
言わんとすることは、指をどれだけ広大しようが、また伸ばしてみても決して月にはならないし、言葉もどれほど広げようが深く突き詰めても結局、真理にはたどり着けないと言うことです。
それでは言葉というのはどういう意味を持っているかというと、言葉はただ真実を示す、あるいは方向を示すだけの物にしか過ぎないと言うことです。
禅の世界では、そうは言っても言葉で真理を説かなければならないという矛盾があります。
文字や言葉で真実の方向を示していかなければならないのです。
禅の世界では、この事に関して大変苦労をなさっているようです。
先の三人の兄弟弟子の話はこれを、良く表していると思います。
私たちの日常でも、伝えたい思いが有る為に出た言葉が「嘘」となってしまい「虚、きょ」が「虚」を産み、大事な物と、かけ離れた物になったり、
その為に「虚」を積み重ねていかなければならないのなら、その営みや行動、言葉は全て「虚」と言うことになり何の意味もない物となってしまいそうです。
私たちの営みはまさに「虚」なのでしょうか?
「賊となる人、人虚なり」と答える方もいらっしゃるでしょうし、「眉毛は大いに生えているよ。」と答える方もいらっしゃるでしょう。
「關」、皆さんで考える必要が 有るのではないでしょうか?
それは、科学の世界でも、経営の世界でも、禅の世界でも、家族の日常でも、同じなのではないかと思います。