2010年10月13日

茶事

茶事について考えてみました。


茶事という言葉は、古くは広く茶の湯全般を意味する言葉として、今日では 一般に、茶の湯において食事(懐石)を伴った正式な客のもてなし方を茶事と いっている様です。


亭主(ホスト)はこの一会の茶事を催すにあたって、数日前から茶室の内外をととのえ、茶事の主旨をあらわすべき道具(食器も含め)のとり合わせに心を配り、懐石料理の献立を吟味し、茶、花、菓子、御香を心配し、庭の打ち水に至るまで茶事に深く心を配り、実意をつくし客(ゲスト)をもてなす。

客はまた、亭主のこの心入れの、一つ一つをおろそかならざることを思い、実意をもって一服の茶を喫す る。


このような主客の心の交流こそが、そして、精神修行を志す事が、茶事の神髄であると思います。


その事は、利休の門人 山上宗二著「山上宗二記」の中、井伊大老の「茶湯一 会集」にも、数寄者として高名な出雲の松平不昧公の「茶礎」の中からも教えを乞う事が出来ます。

日ごろ稽古をされている方は、最終目的は茶事を行うことにあり、 茶の核心は、茶事の中に(具体的には茶事を行う亭主と客の心得の中に・・・)すべて包合されているといって良いのではないでしょうか。

太郎冠者と次郎冠者は、互いに相手の心をいたわりつつ、太郎冠者は次郎冠者を思いやり、次郎冠者はまた太郎冠者の心をおしはかり、互いに一座を建立しようとするその心情こそ、真の茶事の「核心」であると思います。

現代風には、「人と人のコミュニケーションが醸成する為のマニュアル」が作法とか、マナーなのだと表現したいです。

「作法とかマナー」は、自分自身を綺麗に見せたり自分自身を引き立てる為の物ではなく、よりスムーズにコミュニケーションを取り、その環境のバランスをよりよく保つ為に必要な物ではないでしょうか。


その事は、「茶の湯」にまったく興味の無い方の日常生活、もしくは環境の違う異国の方の生活も含め、人類が、そして生命体が生きて行く為の「核心」でも有ると感じています。

茶の湯は、 それがゆえに、つまり「生きていく為」に必要だったから「淘汰されずに 変化してきた」のだとも 考えています。

posted by 徳岡邦夫 at 13:15| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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