2007年03月31日

マジック。

 以前、友人の自宅にて 、テーブルマジックショーを見させて頂きました。 
 不思議・不思議の連続でした。 
  ショーの後、 マジシャンの方を含め、お酒がすすみいいろいろな話になりました。

そのいろいろな話の中で私が感じた事は、手品には必ず「タネ」が有ると言う事です。
       

人の思い込みや 視野の狭さ、に気づかされました。 同時に自然な所作の中に「タネ」が有るのではないかと思うようになりました。
 

タネ明かしはして頂けなかったのですが、そんな事を思いました。 そして私たちが日常やビジネス、料理の世界でしっかり見ているつもりの物は、本当に事実を見ているのかが分からなくなってきました。
       

全てが、目の錯覚や思い込みの世界ですよね!! 
ある一部分だけしか見えていなモノを真実と感じています。

全体を見通す事など不可能なようにも感じます。
       

そういう中にいて 自分一人だけの決断がどんなに不適当な物なのかと言う事に改めて気づかされました。 そこで大事な物は、コミュニケーション です。
 
それを出来る能力とそこで結論を出せる能力と実行しその後の責任を取ろうとする意志とその事を次の結果に結びつけようとし、出来る事が大事なように思います。
 
マジックて面白い!!
 江戸時代から日本にあったそうですよ!!
「品玉(しなだま)」は、弄玉・支那玉・志な玉・しな玉・品玉、とも呼ばれ、最初は曲芸の綾とりの芸をさしたものだった様です。

それが、江戸中期には手練技の手品「お椀と玉」を指すようになり、それが、江戸中期から後期にかけて、手品の名称として「品玉」と呼ばれるようになったのだそうです。 伏せたお椀の間を、布製の小玉が変幻自在するところに、不思議な面白さがあります。
       

目にもとまらぬ早さで行きかうお手玉の現象が、「綾とり」の演技を連想させたものと推測されているそうです。
       

 いかにも昔の手品らしいひびきがあります。  

『さて、このたびは三つのお椀と三つのお手玉を使いましての手品でございます。鹿(か)の子のお手玉は扇面の風におくられまして変幻自在、早い手玉や品玉の、品よくかよう綾(あや)だすき、かけて思いの鹿の子玉、あけてくやしき玉手箱、お囃子にのりまして、品玉の手品、まずはお椀のあらためからでございます…』
         

前口上に続いて、お囃子にのって操る日本古来のお座敷手品「お椀と玉」は、欧米では「CUP AND BALL」と呼ばれ、その源は紀元前までさかのぼることができるそうです。 
 

世界で最も古い奇術の一つといわれ、発祥の地には諸説がありますが東洋(中近東を含む)に起り世界中にひろがったものと考えられています。 
      
日本に伝えられている「お椀と玉」は、インドを源にして中国に伝えられそれが仏教の伝来と相前後して日本に渡ってきたといわれているそうです。  
 遠く貞観三年(861年)の「三代実録」に弄玉(しなだま)、康平元年(1058年)の「新猿楽記」(1058年)や「看聞御記」の嘉吉元年(1441年)の条に、弄玉の語が記されていると言う事です。

 当初は、毬や撥、鎌などを宙へ投げてお手玉のようにする曲取り(綾とり)だったようです。
 それが、手品の品玉になったのは、いつ頃であるか、はっきりしませんが、「お椀と玉」を「品玉」と称されるようになったのは、江戸中期に、初めて伝授書に解説されている様です。

 

明和元年(1764年)の「放下釜(ほうかせん)」。次いで、安政八年(1779年)の「天狗通」です。いづれも、平瀬輔世の著と言う事です。
 元来、「お椀と玉」は、大道で莚(むしろ)を敷き、その上で直に演じていました。それが、江戸中期にはお座敷芸と変わっていったのです。「放下釜」の中で「しな玉の術」として、その秘技を詳しく解説されていると言う事です。
 どの道も奥が深そうです。 手品の世界を調べているうちに私が感じたことは、 どのジャンルでも、人が遣り甲斐を感じ、競争をし 深めていき 次の時代に伝えようとします。
       

なぜでしょう? そうしないと人は、生き続けて行く意欲が無くなるからなのでしょうか?
       

自分自身の存在価値をそこに見出しているのでしょうか?
       

ただ生かされているだけなのでしょうか? だれに?神が存在するのですか?
「神」と言うのは、人間が作り出したものだと考えています。そして神の存在は、人間にとって必要な存在なのだとも感じています。
 

不思議な世界に入ってしまいました。 目に見えないものは、信じない!必要ない!と言う方もいますが、目に見えない物の中に、共に生きていくために、必要なこともあるように感じています。 神の存在もそうかもしれませんが、人の思いと言うものが、一番大切にしなくてはいけないモノなのではないかと感じ、考えています。 私としては、人に提案するだけではなく、今を一生懸命、自分のスタンスで出来る限りの事を 先入観にとらわねぬ様にしっかり本質を見つめ、皆さんに相談しながら実行していきます。
       

懸命に生き続けます。
       

そして、その事が他の方々にも喜んで頂ける形でなければ、続けていけないのでしょう。  マジックという場所は、不思議で巧みで美しい時間を体験できる所であると同時に、人の妙、世の中の妙を改めて考え直すきっかけを与えてくれる空間でもある様です。
posted by 徳岡邦夫 at 20:11| コラム

2007年03月27日

「都をどり」

 「都をどり」は、春の訪れを 知らしてくれる京舞です。
 
明治五年、第一回京都博覧会の余興の「付博覧」として企画されたのが始まりらしいです。
 
この時は、京舞の井上流三世 井上八千代家元(片山春子女史)が伊勢古市の踊りを取り入れて振り付けを創案、お囃子は田中咲松氏、三味線は杵屋庄三氏が担当し、京都府参事槇正直氏が「都踊十二調」を作詞して第一回を開催したとお聞きしました。


 以来、第二次大戦を はさんで六年間中断しましたが、百年以上の歴史がある舞台です。
       

今年で 第百三十五回目です。
伝統と格式を誇る舞台構成を特色としており、装置の豪華さ、衣装の華やかさ、「都踊はぁ ヨーイヤサー」と一際高い嬌声で和して始まる優美な京舞で人気を集めています。
 

12:30〜、14:00〜、15:30〜、16:50〜と一日、四公演を 一ヶ月演ずるハードな興行としても知られています、日頃から 厳しい稽古、戒律の中で育んだ根性、情熱がないと とてもやり遂げることが出来ないと思います。
 

芸妓さん、舞妓さん 裏方さん がんばれ〜!!


 

posted by 徳岡邦夫 at 19:25| コラム

2007年03月26日

危機回避能力の退化。

 「四季の移り変わり、自然のライフサイクル を感じることは大変豊かで 文化的だ!」
       
それだけでは、ないと思います。 
生き抜いていくためには、周りの環境の変化 自分自身の立っている位置、敵か味方か 共感できるか出来ないか、 妥協点はあるのかないのか 云々・・・を察知し行動できることが 大事である。
       

このように言葉にしてしまうと 、 冷血で神経質に感じると思いますが、要は、 生きる力が 弱まっているように感じかせんか?
       

危機回避能力が 退化ingしていると お思いに 成りませんか?
       

食に関して指摘してみれば、日本人は、目の前に 出された物は、大丈夫だと かってに決めつけて、 よく見もしないで、臭いもかがず、味も見ないで 体内に取り込んでしまっています。
       

本当に 大丈夫なのですか? 
情報にごまかされていませんか?  
先入観にとらわれていませんか? 
誰かのことを 信用しすぎてませんか? 

 四季の移り変わりを感じ、  御自分の指先、肌、毛先、内臓に 問い掛けてみてください。 
静かにしていると 血液の流れている事に 気がつきます。健全な 循環は、より高度な循環に 移行していくと感じています。
       

その為に 具体的に 何をすれば 良いのか みなさんと 考えたいと思っています。
       

 私自身が今、感じている事は、 間違う事を恐れず、自分自身が無恥無能な事をさらし、 恥ずかしがらずに行動に移し、だめな部分を 素直に認め 体験として自分で感じ自分の物にして行きたいです。 どんなに 信頼している方でも 反対に どんなに嫌いな人でも 「素敵なところ」と「醜いところ」が 必ずあります。そう思います。    
       

 一番大事なことは、たくさんの情報の中から 自分で求め、判断し、選び、決断し 、実行して その責任を自分自身で取る覚悟を決めることでは ないでしょうか?   
 
責任というのは、自分自身だけで決して取れる物ではないとは思いますが、覚悟をすることが 大事だと感じています。 何をやってもいいのです。 
何でも出来るのです。   
自分で枠を 決めているだけなのです。    自分自身で 正しいと思う事 自分自身で責任を取る覚悟を決めれるのなら なんでもOKだと想います。
 誰が正しくて だけが間違っている  と言うことは、はじめからないのです。   
 思いどうりに出来ると言うことです。 

 
 純粋な事は 毒だ!!という方々もいらっしゃいますが、本当にそうでしょうか?
 
こだわらず、 一つやってみるかな!!
 


 

posted by 徳岡邦夫 at 21:14| コラム

2007年03月20日

「こころ」とは?

心をもとむるに、了に不可得なり    「シンをもとむるに、ツイにフカトクなり」 「いくら心を探し求めても、ついには得ることは出来ません。」これは、神光という僧が大きな節目になる悟りをされた時の叫びだったそうです。 
 

中国、嵩山の少林寺でダルマさんが面壁の修業をしていた時、入門を志した神光という僧がいました。
朝夕、礼を尽くして懇願するのですが ダルマさんは入門をゆるさなかったそうです。
 
神光はついに膝を没する積雪の中で、自らの左腕を断ち、それをダルマさんの前にさしだして決意の程を示したと言います。
この強烈な神光の求道心を見届けたダルマさんは、初めて入門を許したと言います。
うれし涙の神光は、「弟子、心いまだ安らかず、乞う、師安心せしめよ。」 (私はまだ心中が不安です。どうか安心させてください)と師に助言を求めました。 
するとダルマさんは、「心、持ち来たれ、汝が為に安ぜん。」 (ではその心を出してみなさい。そおしたらお前さんのために安じてあげよう。」 と 返答されて、神光は冒頭の句を 読んだと言われています。
 
神光は、後に少林寺の二祖慧可となったそうです。
 
この言葉より感じることがあります。

 一つ目は、この言葉の「心不可得」の部分は、 修行僧ではなく、普通の人の心をさしてるように思えます。 
 喜怒哀楽に終始する心です。 考えてみれば 同じ心が 昨日は喜んだり悲しんだり、今日は怒ったり楽しんだりしています。 
          

 本当の私の心というのは 何処にあるのでしょう。 「これが私の心です。」という物は一定ではなく、鰻がニュルと手から抜けてしまう様な物だと思います。「人間の心という物は そういう物なのではないでしょうか」というのが一つ感じることです。 
 

二つ目は、とらえどころのない心とは嬉しい心でもなく、悲しい心でもないという、一定の姿、形を持たない心で、これが実は 本当の心であるといえると思います。
 

人間の意識では捕らえられない心です。それが「不可得心」です。 神光がダルマ大師のところへいって「不安な心を治してください。」と言ったとき、ダルマは、「その心を持ってこい!!」と言いました。 
        

「いくら心を探し求めても、ついには得ることは出来ません。」とこういった時 図らずも神光は、「心」とか「愛」、「神」と言う 虚の部分に頼らないで 自分自身で自分の姿を表していたのだと思います。 
  

その事を知り、体験の中から情報を得て、だからどうしたいのかを考え、実行し、責任を取る覚悟をすることが 大切だと感じています。
 
皆様は、どう御考えでしょうか?
 
posted by 徳岡邦夫 at 14:25| コラム

2007年03月05日

一流の人間。

「何でも一流品ね!!」と言う言葉を 嵐山店では、お客様から頂戴致します。 「小物にも お金がかかっている〜!!」と言うようにも聞けますが その一流品を作っている方々が一流なのだと思います。
 

目には見えませんが 物の”芯”の部分には、育んだ”人”自身が存在するように思います。
       
情熱や思い、時代を経ている物には、所有者や扱いを任された方の気持も込められている事でしょう。  料理人の情熱、生産者の苦労や大変な生活、建物を作る木材や自然環境、私たちが共に乗客している地球号。 そんな事も感じて頂きたいと思います。

そして、 私共々、スタッフ自身も 一流のおもてなしをできる様「できるできた人」になる為、日々の行動を振り返り、その場その時に、お客様が感動し、極みに涙するような原因を分析し、その瞬間に実行できる環境を作り、結果を出したいです。
 それは、単独にできる事では有りません。
      
 たずさわっている方々の思いが集結しなければ達成できない、もしくはその気持がお客様とも共鳴しないと成し得ない結果だと思います。  共に!!  原因が有るから結果に結びつくのでしょう。  求める結果になる為には、そうなる為の原因を作れば良いのです。  しかし簡単に結果が出ないのは、その原因は、一つではないからです。 森羅万象、今起こっている物事すべての結果は、無数の原因が複雑に絡み合い成り立っているのです。
 無数の原因をクリアーしたその瞬間、結果に結びつくのだと思います。  諦らめた時点でその結果にはなり得ないのでしょう。  それは、絶対です!! 

 

又、桜が咲きます。  そして、「もみじ」の新芽が、 淡い萌黄色に芽吹いた頃 、 「さくら」は、あでやかに舞散っていきます。 この色彩のコントラストの中に、生命の輪廻を感じます。 「雲錦」と言う桜と紅葉のデザイン様式は、そう言う所から生まれたのかもしれません。
       

積み重ねの中に学ぶ所は 数多くあるようです。
 

       僕の前に道はない
        僕の後ろに道はできる ああ自然よ父よ
        僕を一人立ちさせた広大な父よ
        僕から目を離さないで守る事をせよ
        常に父の気魄を僕に充たせよ
        この遠い道程の為に この遠い道程の為に    (高村光太郎)  

   

       俺は姿やさしい花の方へ
       やっぱり気を引かれる
   それを愛してはいかんという事になれば
   俺の生きている意味はどこにある
   俺はたった一度その花を抱いて熱い心臓へ押し付けたい
   たった一度 口と頬に口づけしてこの幸福な苦しい心を注ぎかけたい
   たった一度 その口から愛のこもった言葉がききたい     (ハイネ)

 
 
posted by 徳岡邦夫 at 20:13| コラム