2006年09月22日

萩の開花時期は、6月中頃〜10月末頃です。  豆科で秋の七草のひとつです。
日本各地の山野でごくふつうに見られ、萩といえば山萩を指しっているように思います。 
「萩」の字は、”秋”の”草(草かんむり)”なのでまさに秋の花ですが、早いものは夏前から咲き出しています。(今、嵐山吉兆の待幸亭では萩が咲き乱れようとしています。)
 
花は豆のような蝶形の花です。枝や葉は家畜の飼料や屋根ふきの材料に、葉を落とした枝を束ねて箒(ほうき)に、根を煎じて、めまいやのぼせの薬にするなど、人々の生活にも溶け込んでいいたようです。 秋の十五夜に、薄(すすき)、おだんごと一緒に 縁側などに置いて供える習慣がある地域もあるそうです。
 
地上部は一部を残して枯死するため、毎年新しい芽を出すことから「はえぎ(生え芽)」となり、 しだいに「はぎ」と呼ばれるように なったと聞きました。
 
あんこのおもちに「ぼたもち」と「おはぎ」が ありますが、じつは同じものです。
春のお彼岸に食べるのは、春を代表する花の 「牡丹(ぼたん)」にちなんで 「牡丹餅」→「ぼたんもち」→「ぼたもち」と 呼ばれ、秋のお彼岸に食べるのは、秋を代表する花の「萩」にちなんで「萩餅」→「おはぎもち」→「おはぎ」と 呼ばれるようになったらしいです。 ヘーェ〜!!

各地で 呼び名が違い 「庭見草」(にわみぐさ)、「野守草」(のもりぐさ)、「初見草」(はつみぐ)と呼ぶ所もあるようです。
9月18日の誕生花で 花言葉は「柔軟な精神」、宮城県の県花 でもあるそうです。
 
萩を 詠んだ歌は 沢山あります。

 

一家(ひとつや)に
         遊女も寝たり
                 萩と月      松尾芭蕉

白露を 
      こぼさぬ萩の 
             うねりかな    松尾芭蕉

わけている 
       庭しもやがて 
            野辺なれば
          萩の盛りを
                     西行法師

秋風は 
     涼しくなりぬ 
          馬並(な)めて 
    いざ野に行かな
             萩の花見に
                     万葉集   

 

人皆は
      萩を秋といふ
                よし我は
       尾花が末を 
            秋とは言はむ
                             万葉集
    
わが岳(おか)に 
        さを鹿来鳴く
             初萩の
    花妻問ひに
           来鳴くさを鹿
                   万葉集
     
高円(たかまど)の
           野べの秋萩 
              いたづらに
    咲きか散るらむ
          見る人なしに
                      万葉集 

 

高円(たかまど)の 
          野べの秋萩 
             この頃の 
   暁(あかつき)露に
         咲きにけるかも
               大伴家持 万葉集 

 

指進(さしずみ)の
        栗栖(くるす)の
               小野の
         萩の花
            花散らむ時にし

 
posted by 徳岡邦夫 at 21:11| コラム

萩の開花時期は、6月中頃〜10月末頃です。  豆科で秋の七草のひとつです。
日本各地の山野でごくふつうに見られ、萩といえば山萩を指しっているように思います。 
「萩」の字は、”秋”の”草(草かんむり)”なのでまさに秋の花ですが、早いものは夏前から咲き出しています。(今、嵐山吉兆の待幸亭では萩が咲き乱れようとしています。)
 
花は豆のような蝶形の花です。枝や葉は家畜の飼料や屋根ふきの材料に、葉を落とした枝を束ねて箒(ほうき)に、根を煎じて、めまいやのぼせの薬にするなど、人々の生活にも溶け込んでいいたようです。 秋の十五夜に、薄(すすき)、おだんごと一緒に 縁側などに置いて供える習慣がある地域もあるそうです。
 
地上部は一部を残して枯死するため、毎年新しい芽を出すことから「はえぎ(生え芽)」となり、 しだいに「はぎ」と呼ばれるように なったと聞きました。
 
あんこのおもちに「ぼたもち」と「おはぎ」が ありますが、じつは同じものです。
春のお彼岸に食べるのは、春を代表する花の 「牡丹(ぼたん)」にちなんで 「牡丹餅」→「ぼたんもち」→「ぼたもち」と 呼ばれ、秋のお彼岸に食べるのは、秋を代表する花の「萩」にちなんで「萩餅」→「おはぎもち」→「おはぎ」と 呼ばれるようになったらしいです。 ヘーェ〜!!

各地で 呼び名が違い 「庭見草」(にわみぐさ)、「野守草」(のもりぐさ)、「初見草」(はつみぐ)と呼ぶ所もあるようです。
9月18日の誕生花で 花言葉は「柔軟な精神」、宮城県の県花 でもあるそうです。
 
萩を 詠んだ歌は 沢山あります。

 

一家(ひとつや)に
         遊女も寝たり
                 萩と月      松尾芭蕉

白露を 
      こぼさぬ萩の 
             うねりかな    松尾芭蕉

わけている 
       庭しもやがて 
            野辺なれば
          萩の盛りを
                     西行法師

秋風は 
     涼しくなりぬ 
          馬並(な)めて 
    いざ野に行かな
             萩の花見に
                     万葉集   

 

人皆は
      萩を秋といふ
                よし我は
       尾花が末を 
            秋とは言はむ
                             万葉集
    
わが岳(おか)に 
        さを鹿来鳴く
             初萩の
    花妻問ひに
           来鳴くさを鹿
                   万葉集
     
高円(たかまど)の
           野べの秋萩 
              いたづらに
    咲きか散るらむ
          見る人なしに
                      万葉集 

 

高円(たかまど)の 
          野べの秋萩 
             この頃の 
   暁(あかつき)露に
         咲きにけるかも
               大伴家持 万葉集 

 

指進(さしずみ)の
        栗栖(くるす)の
               小野の
         萩の花
            花散らむ時にし

 
posted by 徳岡邦夫 at 21:09| コラム

2006年09月16日

節句

アジアの古代文明国・中国では対になっている ことを好み、偶数を尊び、奇数を重ねた月日は、陽が極まると陰を生ずる日として避邪の行事を開催していたようです。そういう行事が行われたことから節目となったと思われます。
      
奇数を重ねた月日に避邪の行事を開催していた理由は、故事に不吉な物語が多いことからも 連想できそうです。
例えば漢の章帝のとき 平原の除肇が三月に 三子を産み 三日に至って三子が 皆亡くなったと言う事です。
そこで一村がこれを怪とし、ともに水辺に出て そそぎ洗いし汚れをはらい、盃を流したという記録が有るようです (続斉諧記)。
     
「節供」というのは、もともと節目のお供えの事で、 それが後に節日 そのものも指すようになったそうです。 
邪気を祓うものは、その時期の植物やそれを 材料にした食べ物が選ばれた様です。


日本にもこの習俗はそのまま伝たようで、 時としては義務として領主に敬意を表して 訪問する五つの時節だったりもしました。 
  
江戸時代に 邪気を祓い無病息災を願う一方、 子供のすこやかな成長を祈る節句の性格が 強まり、国民的な祝日となり、 民衆から圧倒的な支持を受けたそうです。
        
その後、現在では どの様な価値が 節句に見出されるのでしょうか? 

 
少し考えても、面白いかも???
posted by 徳岡邦夫 at 17:25| コラム

2006年09月15日

にんじん

 ニンジンの原生地はアフガニスタン北部の山岳地帯といわれているようです。 もともとは黄色いものが主流だったようですがアフガニスタンから、ヨーロッパに伝わった西洋系は15世紀以降、オランダで品種改良が進み、芯までオレンジ色のいわゆるカロチンニンジンとよばれるものが登場したそうです。
この西洋系のニンジンは江戸時代後期にオランダとアメリカから日本に伝えられたそうです。
 
一方でアフガニスタンから中国に伝わった東洋系は江戸時代初期に日本に伝わりますが、こちらは独特のクセがあったのと、育てるのも難しかったので、西洋系が一般的になりました。 沖縄の琉球ニンジンや、香川、京都の金時ニンジンなどは東洋系のニンジンだそうです。 西洋系はカロチンが豊富で、東洋系はリコピンなどが多く含まれて発ガン抑制効果があるとして注目されているようです。
       
ちなみに「キャロット」の語源はカロチンから来ていると言う事です。  一般的には、ニンジンは輪切りにしたときに、葉に直接つながる「芯」の部分が小さい方が良いといわれています。
   
まわりの「肉」の部分だけが大きくする為 肥料を与えすぎると、全体の味は薄くなってしまう事もあるようです。 
       
基本的には土の力が 大きな要因に成るようです。  土を作ることは 簡単には 出来ません。 長年の健全な 営みの中から 必然として出来上がっているのでしょう。
京都に有機認証を取得している野菜生産農家は 今年で5農家だけだと聞いております。
    
京都では、有機認証を 取得する必然性が 無いからだと思います。 
京都の野菜は 京野菜として 全国に求められ 市場の1.5〜3倍の価格で販売されています。
農家にとって減農薬で 充分売れるのです。 自分達家族が食する物以外の野菜には、つまり商品には、減農薬にさえ変更しようとしない農家も有るでしょう。

「子どもたちが正しい食べ物を選択できるようにするためには、絶え間ない親の工夫がなによりも大切なのでしょう。」
この事に つきると思います。 

生産者の方々も 流通に関与している方々も 一般消費者、飲食店や食品加工業者の方々 添加物製造メーカーの方たち、皆さんの子供たちが正しい食べ物を選択できるようにする為に、絶え間ない工夫をしていると言えるでしょうか?

環境の破綻は、生命存続の危機です。 それぞれの立場 環境において 「どうしようもない。」と思われる事も沢山あるでしょう。
 しかし、「このままでは・・・・!」と思っているのは 自分一人ではなく 自分自身を信じ、まず一歩 進んでみる事が 大事なように思います。
    
そうして 点が線になり面になり立体的な球になり、一方方向ではなくどの方向にも 膨張していけば すてきな 環境に成ると思っています。
 が しかし 必然性が伴わないのです。  いろいろな考え方は有るでしょうが 簡単に言えば、土の健全化に大変な努力をし、お金をかけて、わかりにくい手続きや、日々のめんどくさい農業日誌を付けたり、どれだけの作物が今日何処に出荷したかなど財布の中を探られるような事まで申告しなくとも そこそこの収入が効率よく手元に入り節税できる方が良いに決まっていますよね。
 
他府県では もう今までのままでは生活が 成り立たなくかも知れない。と言う思いがふくれあがっているようにもみえます。 信用というブランドを早く作り上げなければ もしくは早く作り上げる事において他府県より有利に展開したいという思いが有るようにみえます。
すでに  市や県ぐるみで 「アグリパーク」など農家の方々とのコミュニティーが出来上がって成功を収めている所もあります。 また、農家の方々が集まり 会社を立ち上げみんなの力で 健全な物を作ろうとしているグループも有るようです。
 生活の中から自分たちの力で、何とかしようと言う必然が無ければ変っていかないのでしょう。人は弱い物ですから、どうしようも無くせっぱ詰まらないと、ほとんどの方は動かないようです。 その結果、農家の方々、各地域で自分たちの手で変革を起こそうというムーブメントは、大変わくわくするのですが、ただ目先の変わった事、今までになかった事、の羅列では、通用しないと思います。 
今までの積み重ねを知った上での、そして本質を知った上での提案、ベンチャー、試み、改革でないと即、排除されると思います。 見せかけの物に成って欲しくないです。 
       
スーパーの 農家の方の写真は、本物なのでしょうか?
生産者表示も 本物なのでしょうか?  食品の安全性に関しては、「トレーサビリティ(履歴追跡)」という概念が非常に重要です。
例えば、ハムの製造メーカーが、自社工場の工程では、食品添加物などを使用していないとしても、養豚業者が、出荷直前まで抗生物質などの薬剤を大量に使用しているかもしれませんし、豚に与える飼料に農薬が大量に散布されているかもしれません。
 製造メーカーが「安全なハム」と謳うには、それらのすべてがトレース(追跡)できなければなりません。 しかし、今回の調査で明らかになったことは、生産地すら把握してない食品メーカーがほとんどいうことで、栽培方法、飼育方法に至っては、ほとんど知識をもたないのが実情というわけです。
水産食品には こういう考え方が 一般化していないので 大変苦労します。  
流通業者は、もっとひどい!!農薬、防腐剤使いたい放題、国によって基準が違う 国内用、輸出用で基準が違うらしい 自分たちが食する物は 安全で 輸出用は、お金になれば 其れで良い。  
話し合いが必要なのか 何が必要なのでしょうか健全化するために 地球外に敵が現れたら 地球は一つになるのかな・・・・・?
 虚偽表示など、食品の安全性をおびやかす事件が相次ぐ中、食品メーカーのこうした姿勢は問題視されなければいけませんね。子供たちのために!!次の世代の為に!!! 私たち消費者や飲食店も、多少価格が高くても、素性のはっきりした、高い基準のトレーサビリティが確認できる食品を購入するという「自衛策」を考えなければならないといえるのではないでしょうか。 家族で、ピクニック代わりに農家に行き、お手伝いをしながらお話しをする事も出来ると思います。 そういう、学校での課外授業がもっと増える事も、良いかもしれませんね。
特に京都の、小学生が、グループを作り、定期的に一般の農家を訪問し、「 農薬を撒いてませんか?」と質問してみるというのは、どうでしょうか?農家の方も、流通業者や消費者に嘘はつけても、子供に嘘をつきとうせるでしょうか。 今度、その提案を、いろいろなところで提案してみます。 水産業へも、目を向けたいですね。
       
考え方によっては、これだけ、堆肥を作り出す行程で出来る水溶性の硝酸態窒素とかによって、環境汚染されて続ける自然から取れる「天然物」より、ゆくゆくは、完全に管理されて作り出す養殖魚のほうが、安全でおいしい物になるかもしれませんね。
   

posted by 徳岡邦夫 at 20:00| コラム

2006年09月09日

道の道とすべきは、常の道に非ず。 
名の名とすべきは、常の名に非ず。
名なきは、天地の始まり、 名あるは、萬物の母。
故に常に無欲にして、以ってその妙を観る。
常に有欲にして、以ってその徼を観る。 
この両者は、同じきに出でて、しかも名を異にする。
同じきを之を玄といい、玄のまた玄は、衆妙の門なり。

 

 『老子』の根本的な考えの源は「体験」ではないでしょうか? 
自分自身が体験していた自然界との触れ合いの中に哲学を見出されたように感じます。
     
「神」と言う概念を越えた所を見ていられたように思います。  古代の中国にあって、天の意思にもとづく祭政一致がとりおこなわれていたようですが、やがて自然そのものを天の意思から切り離して独自にとらえようとする動きが起きたように思います。
  
「陰陽五行説」と言われている物です。
「陰陽五行説」と言うのは、自然現象を陰陽の二つの気と火水木金土の五要素によって説明する考え方です。これが『老子』の体験した事と一致したのではないでしょうか?
  
老子の中では自然は、絶え間なく起こり、連鎖的に生まれては消えていく不変的な大きな物として、把握されていたのでしょう。
       
自然界を変化の一瞬としてとらえようとしたのではなく、宇宙やもっと広い空間の万物の変化を感じて、そこに一つの法則を見出そうとしたように思います。
       
それは真理、根本です。 この核心を、老子では『道』と呼んでいるように思います。 

すべては物質であり、たえず変化し発展するという法則があるのでしょう。

物質でみたされた全体そのものは、「道」がすべてを包括しているのでしょう。
       
「道」がすべてを包括しているのであれば、それは決まったルールであらわせないものであるのでしょう。
       
なぜなら、規定すれば、それは「全体」ではなくたちまち「部分」になるからです。   
       
すべてを包み込んでいる物は規定ができない。「これは、OOです。」と言う事が出来ないのです。 
       
だから無と一緒である。と考える事も出来るとおもいます。  しかし、現実は規定できる物の「部分」となって含まれているようにも思います。
 
つまり「有」となって、現象として成り立っているのです。
       
無から有が生じ、そこに変化を見、あるいは対立物の統一を見るという考え方も出来ると思います。   
「道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。故に常に無はもってその妙を観(しめ)さんと欲し、常に有はその徼(きょう)を観さんとホッス。この両者は同出にして名を異にす。同じくこれを玄と謂う。玄のまた玄は、衆妙の門なり」
      
「玄」とはすべての色を溶かしこんだ黒色のことで、「衆妙の門」とは森羅万象が現れ出てくるところという意味である様に思われます。「万物は流転する」というギリシア自然哲学と似たものも感じる方もいられるでしょう。
        
しかし、その様な事を考え思い悩み、世界をながめたとき、世界にある存在は、固定した一つのスタイルをとりつづけているという不自由なものでもない様に思います。
       
たとえば、AとBが対立しているからといって、その対立は絶対的なものでもなく、なにかの局面であっという間に相互が同一のもとなってしまう。そんなふうに、われわれの常識的で不自由な認識のモノサシをこえて、全体というものははるかに「豊かな」ありようをしている様に思います。
 
「天下みな美の美たるを知る。これ悪なり。みな善の善たるを知る。これ不善なり」
       
みんなは美しいものはつねに美しいと考えるが、実は同時に「醜」であることを知らない。また、人はだれしも、善はつねに善だと思っているが、善は同時に悪であることを知らない――という意味だろうと思う言葉も有ります。
 
ものごとの一面に固執しない、また、ある瞬間の歴史的な姿にとらわれない。
そんな事が大切な事のように感じています。 『老子』が伝えたい事は、なーんにもしない「無為」の哲学ではないように考えます。
      
その根底には自然に対する冷徹な観察があるのだと思います。
       
『老子』の「無為」とは、このような自然のありよう、自然の法則を、主観や人為を一切排して、冷徹に観察するという態度をしめしている様におもいます。
 
問題はそこからで、そうやって自然を冷静に観察し体験してえられた認識をもとに、リアルな行動、働きかけをおこなえ、というのが、『老子』が一番伝えたい事なのではないでしょういか。
 
たとえば、先ほど引用した、 「天下みな美の美たるを知る。これ悪なり。みな善の善たるを知る。これ不善なり」につづいて、『老子』では「ここをもって聖人は、無為の事に処(お)り、不言の教を行う」という実践を説いているようです。
 
「無為とは、手をつかねてなすすべも知らぬ態度を指すのではない。おのれの主体性を放棄して、成り行きに任せる諦念を意味するものでもない。認識を得たことをもって満足し、ひたすら知識のための知識を求める書斎派的姿勢は、由来、中国の思想家には無縁のものである。自然の法則の巨大さへの自覚は、同時に法則運用への意欲にも通ずる。無為、それは道を認識し、道の働きと一体化することである。換言するなら、法則を把握して、その法則をトコトンまで利用することである」
 
これが道だと言い表すことのできる道は、永遠不変の道ではない。 
       
これが名だと言い表すことのできる名は、永遠不変の名ではない。
       
まだ名のつけようのないところ「道」が、天地の始まりである。
       
天とか地とか名がつけられるところ「天地」が、万物を生む母胎である。 
       
常に無欲の状態にあれば、名のつかない、玄妙なる本質の世界を観ることができる。 
       
常に欲にとらわれていると、名で区別された、末端の現象世界しか見ることができない。
       
本質世界も現象世界も、同じ根本から出ているが、 欲の有り無しで見え方が違うために、名を異にする。
       
この同じ根本を玄(限りなき深淵)といい、玄をいくら掘り下げても、次々と新たな神秘なる本質が見えてくる。
       
自然科学が自然の神秘を解明すると、次の神秘の門が現れるのと似ているように思います。 理論ではなく、道は、自然の神秘を体全体で直観的に感じ、それを自分の生き方に生かして初めて、生きてくるのではないでしょうか。
 
まずは、馬券は、買わないと当らないですよね!!
事件は、会議室ではなく、現場で起こっているのですからね。
料理を論じていても お腹は満足しないですよね!
頑張って 相手の事を思い、廻りの事を思い、工夫して作ります。
今の日本で、楽しく 食べてもらえ、明日への活力になるような環境を作ります。

 
理屈ではなく、無心に出来る事を 行動に移してういると 「玄妙なる本質の世界を観ること」つまり奇跡が起こるかもね!!
 

私自身は、奇跡は、偶然ではなく 必然的におこると思っています。

posted by 徳岡邦夫 at 20:13| コラム

2006年09月06日

一片の月。

「長安一片月」という御軸を拝見しました。


「長安一片月、万戸撲衣声」という禅語の前半部分です。 
「撲つ」は、「てへん」に「寿」という字、つまり「擣」と書かれていることがありますが、当用漢字にない字なので、 同じ意味らしい物を当てはめました。 「ちょうあんいっぺんのつき、ばんこ えをうつ こえ」と読みます。

これは李白の子夜呉歌(しやごか)という詩の中 に ある歌です。
李白は唐時代の大詩人です。
長安で月の光を浴び、あちらこちらで衣を撲つ音が 聞こえる。 と言う事です。漢字から読み取れる意味はそういう意味だと思います。
「衣を撲つ」とは洗濯をすると言う事だそうです。
衣を、たたきつけて汚れを取ったのだと思います。
もともと、奥さんたちが遠征している夫(兵士)を 思いながら月の光の下で衣を撲っている情景を歌った詩を、禅僧が別の意味を見出して、禅の世界に持ち込んだ物だと思います。
       
禅の世界からこの詩を見ると、「一」という数字と「万」 という数字が 対になっており、どの家でも、 この家でも、洗濯をする音は聞こえるけれど、その誰もが一片の月を眺めて、いろいろな思いにふけっている と言う情景から 「一即多」、 「一即全、全即一」という大定理を発想させるのだと思います。
        
マクロの世界でも、ミクロの世界でも、心理は一つであると言うことです。
物事は相対的に、 ただ起こっているだけなのです。
良いも悪いも無いのです。
あらゆる意味でのバランスをとりながらただ生まれ、ただ消えてゆく。
     
そして、森羅万象は、互いの因果関係の中にあります。原因と結果が必ず在るという事です。 
どちらか片っ方だけと言うことは、あり得ません。 
それと、1つの原因は、複数の結果に結びつき、反対に1つの結果は、複数の原因より成り立ちます。 
自分自身が思う良い結果が、ほしければ良い結果に結びつく原因を沢山あきらめることなくクリアー しなくては、結果にたどり着けないと言うことです。
       
反対に、あきらめれば永遠に思う結果になる事はあり得ないのです。
それを、ふまえて貴方は、どうしますか?
なにがしたいですか? と言う事です。

一事が万事。
誰かの所為でもなく、世間の所為でもなく、自分自身が起こした行動は、最終的に自分自身の中に戻っていくと言うことです。 
ただ考えすぎて先入観の固まりに成らないでくださいね。 

まずは、目の前の一歩から、ちっさな事から こつこつと!! がんばれ〜!!! 
と言う意味ではないでしょうか?

posted by 徳岡邦夫 at 20:04| コラム